Deep Sparkle

T

    信じ合えるなんて 信じなかった
    人を信じるなんて そんな浅はかなこと 絶対しない
    私はただ プラスチックのフィギュアになりたかっただけ


 新しい教室の窓から見る丹沢は、私が想像していたよりもはるかに鮮明によく見えた。高校二年の新学期。私はクラス替えで校舎の最西端にある教室になった。クラス替えといっても、周りのメンバーはあまり変わり映えがしないので、新鮮味に欠けている。

「ねぇ、真智、今日放課後ヒマ?渋谷でパーティ打つんだけど、来ない?」

高一から同じクラスの雪奈が私に声をかけてきた。ハニーブラウンに染めたロングhairに、ライトブラウンのカラコンをはめた彼女は、学習院や英和の子たちと一緒にイベントサークルを組んでいる。私はよく雪奈からパー券さばきを頼まれているのだ。

「マジ?いいよ、行く行く。またさばいたげよっか?その代わりドア代タダにしろよ」
「オッケ、任して。じゃあ4:30に渋谷で待ち合わせしよ」
「うん」

私はそう言って彼女からチケットをもらう。そして携帯のメモリーに片っ端から電話をかけ始める。全部で300人は超えるかも知れない。みんな私の友達。渋谷のパーティで、池袋のゲーセンで、たった一度会っただけの関係でも、すぐみんな友達になれる。ニコニコ愛想良く笑いながら、ケー番を交換したもう友達だ。そのおかげで私の携帯のメモリーはパンク寸前になってしまった。

「もしもし、ユカ?あたし、真智。久ぶりー。あのね、今日渋谷でパーティあんだけど、来ない?うん、もちろんあたしも行くよー」
ユカと名付けられたその声とパー券の値段交渉をして電話を切る。次はケイ、ミキ、ユウヤ、・・・。様々な名前の付いた特徴のない集合体。それでも私にとっては大事な友達だ。私はチケットをさばく分だけの人数に電話をし、携帯をカバンにつっこんで、教室を出る。
 
今日は楽しくみんなと遊べそうな予感。私は急いで家に戻った。

 
 下北沢にある家につくと、すぐに渋谷で買ったノースリーブのクリーム色のニットと、別珍の膝丈スカートに着替える。鏡の前で赤茶けた髪をブラッシングした。
鏡に映った自分の顔は、まるで人形みたいに全てがきれいに整っている。
二重のクッキリした目は結構気に入っているけど、自分の顔は好きじゃなかった。じっと見ていると、自分の顔なのにちっとも自分の顔じゃないみたい。そこにいるのは、黒崎真智という名前につけられたプラスチックのフィギュアに違いない。1つピアスを開けるたび、マスカラを塗りたくるたび、髪をキレイに染め直すたび、私はどんどんただの人形に近づいていく。でも、“それ”は悲しみとか、苦しみとかいう感情とは全く関係ないところに存在していて、いつでも同じ笑顔でいられる。
 
私はそんなものになりたかった。

 私が5歳の頃、母親は精神病になって病院に通うようになった。原因は父親の浮気とか色々だったと思うけど、弱々しい母親の心は、みるみるうちに荒れ果てていった。そんな母親を見ても、父親は朝帰りをやめないし、母親を思いやることなんて一度もない。それどころか、母親の鬱がひどくなるのに比例するように、父親の外泊は増えていく。
「この家にいると息が詰まるんだ」
そう言って父親は家に寄りつかなくなった。そして、私が6歳の時、情緒不安定になって気が狂った様におかしくなった母親は、自らその命を絶ちきった。私は、母親の死に対して体を切り裂かれるような恐怖を覚え、夜になると、怖さのあまり一晩中泣き続けた。
たった一つ、母が買ってくれたキティちゃんのぬいぐるみを抱いて。それでも絶対に父親には泣き顔を見せなかった。その恐怖以上に家庭を振り返ることの無かった父親を憎むようになった。母親は父親のせいで追い込まれた。どんなに母親がつらいときでも、決して優しさを見せなかった父親を見て、私は彼に対する何かを期待することを無意識のうちに諦めた。
 
 今はその父親と二人暮らし。私たちはお互いに見えない壁に、大きな隔たりを設けて共同生活を送っている。

 でも私は決して父親を許した訳じゃない。そして同時に私たちは同類だった。過去から絶対に逃れられない。母親の自殺という哀れな人生を背負い、一生を彼女によって締め付けられる運命にあるという点で。私たちはこうして一緒に暮らしている限り、お互いに逃れられないことを知っているんだ。


 渋谷のハチ公前は待ち合わせの人でごった返していた。私はすぐに携帯で誰かと話をしている雪奈を見つけ、声をかける。

「チケット全部さばいたよ。今日はなんかみんなすぐつながってさ」
「サンキュ〜助かったよ。さすが真智だね」

私は雪奈にチケット代を渡し、一緒に109の方に歩き出した。周りの人の間をすり抜けるように歩いていく。109の前のスクランブル交差点で、どこかのダンスチームが音楽に合わせて踊りを披露している。その周りにはたくさんの見物人が集まって、彼らのダンスに見入っていた。
あの左のドレッドの人、かっこよくない?/聞いてよ、昨日ブクロで合コンしたんだけど/っつーか、マジむかつくよね/なんか楽しいことない?

人だかりから聞こえる会話に何となく耳を傾けながらそばを通り抜けた。きっとみんな退屈してるんだ。わたしもみんなも退屈してる。だから何か楽しいことを求めて、こうして渋谷にやってくる。渋谷は私たちの一番安心できて、そして、一番満たされる唯一の街なのだ。

 クラブの中はもうかなりテンションが上がりきっていて、ノースリでいても暑さがぐんぐん伝わってくる。下のフロアではDJが選曲した『Play with the numbers』に合わせてみんなパラパラを踊って笑っている。みんなで同じ動きをして、同じ時を過ごす。そのことがすごく楽しい。だから渋谷って好きなんだ。目的なくても、行けば誰かに会える。ここにくれば、悲しさ、孤独、苦しみ、寂しさとかいうものから解放される。そしてこの街に来るたび、人形に近づくことができる。

 私が座ってジュースを飲んでいると、ナオトがやってきた。彼とはたしかこの前のパーティで知り合ったんだっけ。ナオトは友達と一緒だった。

「今日きてるとは思わなかったよ。この前次は来れない様なこと言ってたから」
「うん、ちょっとテストがあってさ、でもやっぱ来ちゃった」
ナオトの友達はいつも一緒にいる友達じゃなかった。
「初めてみる顔だけど。ナオト、紹介してよ」
「あぁ、こいつは同じ高校の修哉。今日はヒマだって言うから誘ったんだ」
「そっか。修哉クンね、あたしは真智。よろしくね」
私はめいっぱいの笑顔で彼に笑いかける。これでまた一人友達ができた。

 修哉は少し天然っぽい巻き髪で、ピアスを両耳に1つづつはめ、口数の少ない、おとなしい印象だった。彼は私に「暑くて死にそうだよ」と言って笑った。私はすごく優しい笑顔だと思う。きっと修哉はすごく優しいいいヤツなんだな、と直感した。なんとなく興味がわき、私は彼に色々話しかけてみた。
「ねぇ、修哉って呼んでいい?修哉はナオトと同じ高校なんだよね。ってことはかなりお金持ちなんじゃない?」
「そんなことないよ。俺のせいで家の金はほとんど食い潰してるし」
「でもいいじゃん。あたしなんてバイトしないとやってけないよ」
「君は、よくこのパーティに来てるみたいだね。」
「うん。主催してるのがあたしの友達だから。修哉もこれからくれば?楽しいよ」
「俺はいいよ。昔はよく来てたんだけど」
「なんだそうなの?なんで来なくなったの?」
「ちょっと他のことで忙しくなったんだ。だから」

他のこと、ってなんだろう。そう思ったけど、聞かなかった。
私たちはお互いに深入りしないことでみんな仲良くやってるんだから、知らなくていいことは聞かなくていい。それが私たちの友達になるときの暗黙の了解。法則1:必要以上に相手の領域に入り込むな。

 私は修哉と一緒にフロアに降りた。フロアでは定番『night of fire』でみんなが楽しんでいた。私も修哉にパラパラのフリをして見せた。修哉は笑って「さすが、うまいじゃん」と言った。私も笑った。それでいいんだ。こうやってみんなで笑っていれば、それでいい。
 
だけど、私はこの時にもう戻れない階段に足をかけていたことに全く気づかなかった。

                 
U

 一限の数学Uの時間、予想もしない人からのメールを私の携帯は受信した。私は小泉の目を盗んでメールを読んでみる。

『今日3時に渋谷で会えない?』

修哉からだ、この前パーティで知り合った。まさか彼からこんなメールが来るとは思わなかった。彼はどっちかというと、私やナオトとは違う、まじめな雰囲気があったから。何の用だろう。他の友達だったらこんなこと考えないのに、修哉だとなぜか構えてしまう。でも、もう私たちは友達になったんだから、断る理由はない。私は修哉にOKの返事を返した。

 私は4限の授業をさぼって、人混みをかき分けて修哉と待ち合わせた渋谷のHMVの階段の前に急いだ。
 修哉はオレンジのパーカに黒いパンツをはいていて、大きなバックを持っていた。私たちはとりあえずロッテリアに入って話をする。

「修哉からメール来るとは思わなかったな。すんごい意外だよ」
「ちょっと真智に見せたいものがあるんだ。」
「え、なになに?」

私に前に出されたものは一枚の絵だった。その絵には、小さな女の子と白い花、たぶんマーガレットか何かが描かれている。広いマーガレットの花畑にいる一人の寂しそうな女の子。その顔は描かれた青空とは対照的に今にも泣き出しそうな表情だ。

「この絵?これどうしたの?」
「俺が描いた。今美大目指してるんだ。」
「そーなの?スゴイ、これ超うまいよ。なんかこの子誰かモデルとかいるの?すごい寂しそうな顔」
「真智だよ。君をモデルに描いた」

え、これがあたし?
私は一瞬拍子抜けした。だって、何であたしがこんな寂しそうにしてるの?
「うそだぁ。あたしこんな顔しないよ。なんで寂しそうなの」

私はいつでも笑っているはずだ。だって修哉と初めて会った時だって、私はかなりテンションが上がっていて、ずっと笑ってたから。修哉にこんな顔見せたはずない。第一、あたしこんな寂しそうにしたことないよ。今まで一度も。

「真智は最初会った時、こんな風に見えたよ。寂しくて、だからあそこに来てるようだったな」

私はちょっと不愉快になる。コイツ、あたしのこと全然知らないくせに、何でここまで言えるの?それじゃまるであたしが一人じゃいられないか弱い女みたいじゃん。

「そんなことないよ。楽しいから行ってるんだよ。そんなこと言うなんて、寂しくて来たのは修哉の方なんじゃないの?」
私は少し意地悪い言葉を修哉に投げかける。しかし、彼は少し笑って「そうかも」と言った。
「でも、真智もそう見えるよ。なんか似てる感じがあったから君を描いてみたんだ」
「そんなことないってば」
私はもうそこで会話をうち切ろうとする。私たちは楽しい空間を共有できればそれでいいんだから。あまり人に深入りしたくない。深入りしてもいいことなんて1つもないし、する意味がないのだ。修哉が今寂しいのか知らないけど、私には関係ない領域。

「そんなことより、絵、描けるんだね。あたし全然絵のこと知らないけど、すごいうまいと思うよ」
「ありがとう。でも美大に行くのはなかなか難しいんだ」
「そっか。この前言ってた、やりたいことって、絵だったんだね。私は当分ナオトたちと遊んでた方がいいなぁ。今ってかなり楽しいと思う」
修哉は絵をしまうと、携帯を出して私に聞いた。
「真智って、名字は?」
「あ、黒崎だよ」

修哉は私の名字を携帯のメモリーに入れた。私の友達で「黒崎真智」ってフルネームで言えるのはたぶん2〜3人だろう。あとは真智だけで十分通用する。あまりに真智しか使わないから、自分が黒崎だという実感がこのごろ薄らいできてしまった。
 
 修哉はこのあと行くところがあるという。一緒に行くかと聞かれたが、少し考えて断る。きっと私の脳細胞がこれ以上修哉といるのは危険だと察知したからだ。
「じゃあ、また今度」

そう言って修哉は私を残してロッテリアを出ていった。何なんだ、あいつは。一体何だったんだ?絵のことで頭いっぱいになって、少しおかしくなってんじゃ。

 私は今まで修哉が座っていた席を眺めながら、「変なヤツ」とつぶやいた。



 真っ白いマーガレットの花畑に私は一人でたたずんでいる。すると、前の方に白い服を着た女の人がこっちを向いて笑っているのに気づいた。彼女は黒い髪をアップで結んで、耳にピアスをしている。
 あ・・・お母さん?
私はすぐに彼女が私に会いに来てくれたんだと思い、叫んだ。
 
お母さん!

私は無我夢中で叫ぶ。

 お母さん!あたしだよ、真智だよ。迎えに来てくれたんでしょ?

その女の人は笑ったまま動かない。私は我慢できずに彼女めがけて走り出す。しかし、いくら走っても、彼女に追いつくことができない。待って、お母さん!行かないで、あたしだよ、真智だよ!お母さん!待って・・・!
すると、すぐ後ろから女の子の声がした。
 
走ってもむだだよ、おいつけない。

誰?あなた。
その子は5,6歳の小さな女の子だ。
何でそんなこと言うの?黙っててよ。 
むだだってば。あたしなんか今までずっとおってるけど、おいつけたことないもん

 そんなの、わかんないじゃん。あれはわたしのお母さんなの!
 
私のお母さんだよ
 
え?
 
真智のお母さんだもん!とらないで!

そう言ってその子はいきなり泣き出した。大きな声で、悲鳴みたいな声で。
 
待ってよ、お母さん!お願い、行かないで。あたしをおいていかないでよ

しかし、女の人はどんどん遠ざかっていく。どこまでも天使の様に微笑みながら。
そして次の瞬間、その人は見えなくなった。どこを探しても、叫んでも、いない。
 
お願い・・・行かないで・・・


 私はベッドから落ちそうになっていた。

また、この夢。

母親が死んでから、私はよく母親の夢を見るようになった。しかも、いつも私が彼女を追いかけて、彼女が逃げて、その繰り返し。どんなに叫んでも、追いかけても、今まで追いついたことは一度もない。必ず最後に彼女が見えなくなって、目が覚めるのだ。初めてこの夢を見た時、母親が私に会いに来てくれたんだと思った。夢で私はお母さんに会える。そう思っていた。でも、いつだって私は彼女に置いていかれ、泣き叫んでいる。だんだんその夢を見るのが恐くなった。もう、見たくない。私はもう、母親が死んだときの6歳の無邪気な子供じゃないのだ。

 だから、心を持たない人形になれればいいんだ。このキティちゃんのように。きっとそうすれば、こんな夢は二度と見なくなる。
 最近はこの夢を見なくなっていたのに、なぜだろう。私はキッチンに行き、コップに水をくんで、一気にのどに流し込む。父親はまだ帰ってきていないようだった。どうせいつものようにどこか女と遊んでいるんだろう。

 別にかまわない。

あいつがどうしてそんなことをしているのか、よく分かっている。母親の死の束縛から逃れるためにやってるんだ。母は、自分の死によって、生きてる間に支配できなかった父の心をこうやって支配している。父親の心の中で生きることを選んだ母親。

 不意に、今日修哉に見せられた、私がモデルだという絵のことを思い出した。白い花畑に女の子が一人。私は背筋に悪寒が走ったのを感じた。そうだ、あの絵を見たから、夢を見たんだ。修哉が私を描いたなんて言うから、印象に残っていた。迷惑なヤツだ。

「あんな、一枚の絵で、動揺してやんの」

私は独り言の様につぶやいた。きっと聞いていたのは、水道から次々と流れ落ちる滴だけだっただろう。


 絶対に修哉に関わるのはやめようと思っていた私が、自分から彼を誘ったのは雪奈と話していて気が変わったからだ。
「修哉って昔はかなりヤバかったらしいよ。なんかすごく喧嘩っぱやくて、修哉が高1の時に弟のことをからかった先輩に殴りかかったんだって。」
「へぇ。全然そんな感じしないけど。」
「ナオトが教えてくれた。いつも警察にお世話になってたんだって」
「てゆーか、弟いるんだ。何歳くらいの?」
「今中2らしい。なんか養護学校にいるんだよ。」
「え、障害者?」
「うん。車椅子なんだって。そのほかは何にも問題ないらしいけど。」
雪奈は長い髪をかき上げながら言った。
 私は修哉にメールを入れてみる。
『今日あいてる?この前の絵、もう一回見せてくれない?』


 私と修哉は二人でファッキンに入った。私は今度のイベントのチケットを出して修哉を誘ってみた。
「雪奈たちがやってるヤツなんだけど。もしよかったら来ない?」
「いや、俺はいいよ。」
「まぁ、そう言うと思ったけど。それより絵、持ってきてくれた?」
「うん。もちろん。でも何で?」

私は修哉から差し出された絵を見つめる。悲しそうな顔の女の子の服を確かめる。真っ白い服だ。あの夢で泣いていた子も白い服を着ていた。やっぱりこの絵の風景で私は夢を見ていたんだ。

「この絵、どうかした?」
「私、この絵の通りの夢を見たよ」
修哉に話すつもりなんて全くなかったのに、私の口から出てきたのは意外な言葉だった。「自分の母親を追いかけてる夢。昔からよく見てたんだけど、最近はあまり見なくなってたんだ。」
「母親を?なんで、トラウマとかあんの?」
「自殺した。私が6歳の時。ちょうどこの絵の女の子くらいだよね」

こんな話、今まで誰にもしたことなかった。修哉にこんな話をするつもりなかったのに。なぜだろう。本当は誰でもいいから話したかったのかも知れない。私は今まで張りつめていた自分を少し緩めて深呼吸をした。
「夢でね、その女の子が泣いてるんだ。私も泣いて叫んでた」
「夢は自分の心が正直に表れるんだ。寂しさを抱えてるときは暖かい人のぬくもりを欲しがる夢とかさ、なんかの本で読んだことある」
「じゃあ修哉はどんな夢見る?」
「俺はあまり夢見ないよ。心がカラだからか?」
修哉は冗談めかしていったけど私はマジになって答える。
「心が?じゃああたしもカラになれるといいな」
「カラになりたいなんて、変わってるな」
「だってその方が楽でいいじゃん。いやな夢見ないし」
「そうかな。何も感じないんだから、楽しくないだろ」
「つらいことや、悲しいことはもう充分だよ」
私はそう言ってちょっと失敗したと思った。ちょっとしゃべりすぎだ。心がカラっぽのフィギュアには一番ふさわしくない行為だ。人の情にすがりつくようなことはしたくない。

 私は話題を変えるために、この前どこに行ったのか聞いてみた。修哉は私に写真を見せる。その写真にはキレイな向日葵の花や何処かの風景が写っていた。
「これを撮ってきてたんだ」
「へぇ。何これ、絵描くのとかに使うの?」
「まぁね、あとCGとかに使ったりして遊んでるんだ。」
「そーなんだ。すごい、何か楽しそう」
私たちはたわいもない話をした。私は修哉に絵の話を聞いて、楽しそうに話す修哉を少しだけうらやましく思う。
 
心がカラなんかじゃないじゃん。

私はそんな風に何かを話せるだろうか。無理だろうな、私には。第一、心が空っぽになるって、そういうことができなくなるってことなんだし。
 私は修哉と別れてから、一人で渋谷の街を歩いた。雪奈に電話してみる。すぐに留守電につながった。きっとまたクラブにいるんだろう。中じゃ電話にでられないからと言って、いつも留守電にしているのだ。携帯から聞こえる冷たい機械音声を聞きながら、修哉の撮ってきた向日葵の写真が目の前に浮かんだ。
「CGとかに使うんだ」
修哉の声が留守電の声に重なって聞こえる。私はその声に向かって呟いた。
「じゃあ、あたしもCGに取り込んでよ。そうだな、一番優しい世界の」
携帯からは答える変わりにピーッという発信音だけが、聞こえる。

 

 家に着いた私を出迎えたのは、信じられない光景だった。
 
 真っ暗の部屋の電気をつけると、目に入ってきたのはキッチンのテーブルの上に置かれた、2万円のお札。私はすぐに家の引き出しを調べた。・・・ない。生活費なんかが全て入っている通帳と、印鑑。それに父親の身の回りのものは全て。

あいつは出ていったんだ。私を捨てて。

 そう思った瞬間、私は気づいた。違う。これは信じられない光景なんかじゃない。いつかこんな日が来ると思っていた。母親が死んでから、私はいつかはこんな日が来ると思っていたんだ。あいつは、私の父親は、母親だけじゃなく私まで捨てていった。たった、2万円で。たった二万で私と、母親から逃れようとした。

許さない。
あんたにそんなことさせない。
私から逃れることなんてできない。この母親の面影の残る顔と過去から自分だけ逃れようなんて、抜け出そうなんて、絶対に許さない。
あんたも私も一緒に苦しんできたんでしょ?
なのに、ずるいよ。
卑怯だよ。あんたまで私を捨てていくの?
 
 私はその場に崩れて座り込んだ。今まで張りつめていたものが一気に崩れ去って、まるで心臓が宙に浮いているような空虚さが襲う。涙は出なかった。絶対に泣かない。母親が死んだときからそう決めている。

・・・泣かない。

私はぐっと手を握りしめた。強く、強く。
 そのときから、二度と母親の夢を見なくなった。
   

V

 高校二年の1学期は今までで一番短いたったの一ヶ月。
 私は高校を辞めて、コンビニでバイト暮らしになった。高校の学費を払える余裕はないし、大学進学をするわけでもなかったので、そのことは別にどうでもよかった。ただ高校を辞めるってだけで、私には変わりはない。今まで通り、クラブで遊べる分だけのお金を稼いで、暮らせればいい。高校を辞めるとき、雪奈が心配してくれたけど、彼女とは今まで通りの関係が続いている。もちろん、修哉やナオトとも今まで通り遊んで楽しんでいる。
 私がバイトをしていると、修哉からメールが届いた。
『高校やめたんだって?ナオトに聞いたよ。何かあったの?今日会えない?』
ナオトはたぶん雪奈から聞いたんだろう。あのおしゃべり。私は修哉のメールを見て、少しほっとした。私のことを心配してくれる人がちゃんといるんだ。例えそれが社交辞令みたいなものでも、今の私には唯一の救いだった。


 私たちは渋谷のファミレスで待ち合わせをした。
「びっくりしたよ。急に高校やめたって言うから。何かあった?」
「うん、ちょっとね。父親が出ていっちゃってさ。もともと他人みたいなものだったけど。学費払えないし、別にどうでもよかったから、学校なんて」
「そうだったのか。ひどい父親だ、子供を捨てていくなんて」
「うん、でも大したことないよ」
「君にこんなつらい思いをさせるなんて、許せないね」
「え・・・つらい思い?」
「たった一人の肉親に出て行かれたりして」
「別に辛くなんかないよ」
「そうかな」
「てゆうか、何でそんなこと分かるの・・・?あたし一度も修哉にそんなこと言ってないじゃん?」
修哉を見て私は少し苛立つように言った。
「何で?どうして分かったようなこと言うの?そんなの修哉が勝手に思ってることじゃん!私は全然つらくなんかないし、悲しくもないよ。そんな悲劇のヒロインみたいなこと言わないで。修哉に私の何が分かるの・・・?」
私の口調はいつの間にか鋭くなっていた。今までこんな風に誰かに怒鳴ったりしたことはない。

「君を見てれば分かるよ。すごく」
修哉は静かに言った。
「真智は今すごく寂しそうだし、うまく言えないけど、悲しい感じがするんだよ。もう大人なんか、周りの人間なんか信じられないって目をしてる」
「そんなこと・・・ないよ・・・」
「俺のことも信じられないと思ってる」
「・・・ごめん。もうかまわないで、私のことに。そこまで分かったんならもういいでしょ。そうだよ、信じ合えるなんて、信じない。私は修哉のことだって信じてない。誰も信じないよ。だからもうこれで終わり」
私はそれだけ言うと修哉が何か言おうとするのも構わずに席を立った。

 一人で渋谷の夜の公園へ行ってみる。いつもは誰か先客が3〜4人いて入りにくいのだが、今日は誰もいない。私はブランコに座ると無意識にブランコをこぎ出す。

「君を見てればわかるよ。すごく」

修哉の言った言葉が何度も頭の中をリフレインしている。

私のことを見ている?修哉が・・・?

そうゆうの、やめてよ。
あたしは誰かに見ていてほしくなんかないし、同情されたくない。それとも、あんたがあたしを救ってくれるの?あたしはきっとこれからも誰かを信じたりしない。誰か人を信じるっていうのは、裏切られて馬鹿を見るってこと。それはあたしが自分の心を押し殺し、新しく生まれ変わった6歳の時から、揺るぎない真実としてあたしの心に染みついている。

あたしは今までも、これからも一人で生きていく。生き延びてみせる。

 この渋谷の街には、きっとあたしみたいな孤独な少女が星の数ほどいるのだ。そのことは私に一粒の希望を与え、そしていつしかそのことだけが生きる糧となって存在していた。


「ねぇ真智、あんた最近さ、よく修哉と会ってるみたいじゃん?」
次の日の放課後、私のバイト先に顔を出した雪奈が私に好奇心の目を向け話しかけてきた。
「別に。ただちょっと修哉が・・・」
「修哉が何?」
あの絵のことを言いかけたが、途中でやめる。
「修哉ってさ、あんたのこと好きなんじゃない?」
「は?何で?」
「だってさ、真智が学校やめたって聞いたとき、修哉すっごく心配してたらしいよ」
「ふぅん。そう」
あたしは素っ気なく答える。確かに修哉が私のことを気にかけてくれているのは分かっている。しかし、次の雪奈の言葉は私を驚かせた。
「けどさ〜修哉ね、昨日うちらのイベントに来たんだよ。そんでカナと一緒に出ていったんだ」
カナは昔、私が声をかけて一緒に行動をしていたヤツだ。でも、人を見下したような話し方と、過剰なナルシストっぽさが気に入らなくて、あまり好きになれなかった。あのカナと修哉が?・・・なんで?
「カナが修哉の事かなり気に入ったみたい。でも、修哉も別にいやじゃないみたいだし。あいつも、やっぱ普通に遊んでんだね。なんか真面目なとこあるような気がしたけど」
「うん。あたしが誘ったときはイベントは行かないって言ってたのに」
あたしと別れたあとイベントに行っていたんだ。なんだ。
「真智も気を付けなよ。遊ばれないようにね」
「あたしは平気だよ」
私は笑って答えた。
そう。私は平気。修哉が何をしようと私は気にしない。気にならない。
 家に帰ると、私は買ってきたばかりのローリンヒルのCDをつけた。

Forgive us our trespasses as we forgive those that trespass against us.
Although them again we will never,never, never trust.

私たちの犯す罪をお許しください
私たちに対して罪を犯すものを、私たちが許しますように
彼らを二度と再び信用しないとしても
          (Forgive Them Father/LAURYN HILL)

 
この部屋に帰ってくると、いやでも私を捨てて出ていった父親のことが思い出される。ローリンの歌に耳を傾ける―彼らをお許しください、神様。彼らには何をすべきか分かっていないのです。彼らをお許しください、神様。彼らには自分たちの行いが分かっていないのです―なぜローリンは彼らを許そうとするのか?私にはよく分からない。私だったら、父親を許さない。許せないのに。
 それとも、あたしは間違ってるの?重く苦しい過去を背負うことで、未来が明るく開けるっていうの?信用しなくても、許すことで救われる?もしそうなら、あたしは一体どうすればいいの?あたしは一体――。

神様なんて信じない、でも・・・
もしいるのなら、教えて。
誰か、私をこの苦しみから助け出して。
誰か、お願い――。

 テーブルの上にはあの日からそのままにしていた2万円がある。今もし願いが叶うなら、私はきっと、その2万円を使ってこう願う。
このお金と引き替えに、暖かな幸せをください。そして、それを壊すだけの勇気をください。

 それがあれば、私は全てを許すことができるかも知れないのに――


 私のバイト先に大きな荷物を抱えてやってきた修哉は、私に笑顔で笑いかけた。
「真智のバイト先ってここだったんだ。うちから近いのに今まで気づかなかったよ」
「何、ナオトに聞いてきたの?」
「まさか。偶然外から君が見えたんだ。ほんとにうちの近くなんだよ」
「そう」
私は修哉の荷物を見て、「旅行?」と聞いた。
「まぁね。ちょっとした小旅行。帰りだよ」
私は修哉の持ってきたおにぎりをレジに通しながら、修哉にカナのことを聞いてみたくなる。
「カナと、つき合ってんの?」
「カナ?あぁ、この前のイベントにいた子か。」
「雪奈が言ってた。二人でなんか仲良さそうだって」
「つき合ってるとか、そんなんじゃないよ。ただ一緒にいただけっていうか」
「あんまり女の子と遊んだりしない人かと思ってた」
「どうして?」
「真面目そうだし。でも、そうだよね。前はよくクラブで遊んでたんだもんね」
私がそう言うと、修哉は肩をすくませて笑った。
「バイト、いつ終わるの?」
「もうあと30分くらい。交代の子が来たら」
「じゃあ夕飯でも食わない?」
 私たちは下北沢にあるタイ料理屋で待ち合わせをする。自分でも修哉にはあまり近づきたくないという気持ちがあるのに、結局誘いを承諾してしまった。

「心を忘れてきてしまった天使の話知ってる?」
ご飯を食べながら、修哉は私に向かって静かに言った。私は思わず手を止める。
「心を忘れた?」
「そう」
心を忘れてきてしまった天使――
「どんな話?」
私が聞くと、修哉はゆっくりその話をしてくれた。

「心を忘れてきてしまった天使には羽がないんだ。だから空を飛んで行こうとしても飛べない。だから羽を捜そうとして一生懸命になる」
まずいろいろな人の所に行って羽のありかを知らないか聞くんだ。でも、なぜか誰も知らない。自分でもいろいろなところを捜すんだけど、見つけられない。困ってしまった天使はとぼとぼと歩いていたんだけど、そこに一羽の白い鳥が泣きながらやってきたんだ。どうか私の羽を見つけて下さい、と。でも、天使は自分だって羽が無くて困ってるんだよ。羽がないと家に帰れないんだから。だけど、取り敢えず二人で羽を捜すことになった。そしたらついに天使は見つけたんだ、羽を。そのことを白い鳥に教えてあげようと思ったんだけど、自分だってその羽を捜していたんだしと思って、すっごく迷うんだ。この羽があればもう自分は家に帰れる。だから内緒で持っていってしまおうかと思ったんだ。でも、天使はそうしなかった。自分も捜していたその羽を持って鳥の所に急いだ。その時にふっと湖の湖面に映った自分の姿を見て、驚いてしまう。
「なんでだと思う?」
天使からその心をなくしたら、一体何が残るのか。そこにあるのは天使に似た悪魔の微笑み?
私がそう言うと、修哉はきっぱり否定した。

「そこに映った自分は今までよりもずうっと綺麗な羽が生えていたんだよ」
天使は驚いて自分の背中にある羽を手で触ってみた。それはとても暖かくて天使を優しい気持ちにさせた。家に帰ってそのことを話すと、それはお前が優しい心を持てたから羽が生えてきたんだよ、と言われたんだ。その天使は優しい心を手に入れることが出来た。
「心を手に入れたら、欲しかった羽も手に入ったんだ」
話し終わると修哉は私に向かって少しだけ微笑んだ。
「真智も羽を探し続けて迷っている天使みたいなんだよ」
「・・・あたしはそんな綺麗なものじゃないよ。」
「幸せ捜してんでしょ?」
「つまり、あたしは何だって言いたいの?」
私がそう言うと、修哉は私の胸を指した。

「心・・・?」

「心を手に入れると幸せになれるんじゃない?」

そう言う修哉に私は笑いながら言った。
「修哉って、変わった事言うよね」
「まあね」

そう言った修哉の目に、私が映っている。それは私が動かなければ、ずっとその瞳の中で動けない。つまり完全な依存。それを見て、いつも見る、鏡に映った自分の影を思いだした。
私によって支配されているもう一人の私は、何を思ってるの?私と同じ姿をしたそこにいる女の子は、本当は一体誰なの?
本当に私なら、笑って見せて。私が笑う時に、笑って見せてよ。

でも、そこにいる私は永遠に笑わない。私が笑っても、いつもその子は笑ってくれない。

当たり前だ。

私は笑っていないのだから。どんなに口の端を持ち上げて歯を見せてみても、私はちっとも笑えていないんだ。だからその女の子だって笑わない。それどころか、いつも周りを見回している鋭い目つきで私のことを射抜こうとしている。
もう、やめてよ。そんな目で私を見るのは。

 私たちは食事のあと、宛もなくしばらく歩いた。「そろそろ帰ろうか」と言った修哉に、私は「先に帰って。私はもう少しぶらぶらしてく」と言う。しかし修哉は「分かった。つき合うよ」と言って私と一緒に歩いてくれた。
「ねぇ、あたし今、ちゃんと笑えてる?」

「どうしたの、急に」
修哉は私の突然の言葉に少し驚いていたようだった。
「あたし笑えてないんじゃない?だって、あたしは笑ってるのに、笑ってないかも知れない・・・。」
そう口にすると、不意に今まで考えていた事や、感情が一気に押し寄せて押さえきれなくなる。私は思わず少し声を詰まらせ、足を止めた。

もう、限界・・・。

結局私は、心を持たないフィギュアになることもできないし、誰かを許せる心もない。こんな風に、私は中途半端になって最後は誰にも知られずに消えていくんだろう。人形にも、人間にもなれなかった、哀れな悪魔として――。
突然修哉が私を引き寄せ、強く抱きしめる。私がびっくりしていると、修哉は静かに微笑んで言った。

「・・・ちゃんと笑ってるに決まってんじゃん」

そのとき、私の頬を一粒の涙が伝った。

誰でもいいから話したかった訳じゃない。今までも、ただそこにいたから話したんじゃなかった。修哉だったから。そこにいるのが修哉だったから私は話した。
私は気づいた。ううん、今まで気づかない振りをしていた。私は修哉がこんなにも暖かくて優しい心を持っていると知ったときから、本当の気持ちを隠していたんだ。ただ、自分が傷つくのが恐いから。もうこれ以上の苦しみを私の心に与えたくなかったから。
 私は修哉の暖かな体温を感じ、伝わるぬくもりを抱きしめる。他に何もいらない。そのぬくもりさえあればあたしはきっと笑える。生きていける。

「修哉・・・、ありがとう」

修哉はやっぱり天使なんだね。その満ちあふれた眼差しを私に向けて。そして、この哀れな成り損ねの天使にほんの少しでいいから、一瞬でいいから、幸せになる力をください。

W

 毎朝同じ時間にコンビニのバイトへ出かけ、土日は雪奈やナオトと一緒にクラブで朝までオール。そんないつもと変わらない生活が一変したのは、もう梅雨の気配が少し気分を憂鬱にさせる6月の2日だった。私はバイトを終えると修哉と一緒にご飯を食べる。
「修哉って弟がいるんでしょ?どんな子?」
私が弟のことを知っていたのが予想外だったのか、修哉はひどく驚いた顔を見せる。
「誰に聞いた?」
「あ、雪奈。彼女はたぶんナオトに聞いたんじゃない?」
私がそう言うと、修哉はそっか、といってスパゲティを口に運んだ。私は次の言葉を待っていたが、修哉はそれっきり何もしゃべらない。私は仕方なく自分がしゃべることにする。
「兄弟居ていいね。私一人っ子だし。車椅子って大変なの?」
「あいつは養護学校の寮で生活してるんだ。だからほとんど会わないし、しゃべらない」
「そうなんだ。でも修哉、弟思いだよね」
「全然。あいつがああなったのは俺のせいなんだ」
「修哉の?それどういうこと?」
修哉は少しの沈黙のあと、ゆっくりと口を開いた。

「3年前、俺が中2の時に、バイクに乗ってたんだ。先輩のバイクを借りて毎晩一緒になって乗り回してた。そんなことばっかしてた時、つい魔が差した」

そのときまだ賢治は小5だった。俺もガキだったからあいつを後ろに乗っけて2ケツしたんだ。でも俺は賢治を面白がって乗せたんじゃない。あいつに見せてやりたかったんだ。バイクも猛スピードで走り抜ける時の周りの景色を。あいつはいつも俺と違って親の言いなりになってるようないい子だった。親を喜ばせる、心の優しい子ヤツだったんだ。でも俺は賢治にはもっと違うことで生きがいを見いだしてほしかった。バイクをやらせたかったんじゃなくて、いつもと違う何かをそこで感じてほしかったんだ。あいつが、本当は苦しんでいるのを知ってたから。だからその出口を見せてやりたかった。

「でも、そのときに俺は賢治を乗せたバイクで転倒しちゃったんだよ。激しく」

俺も賢治もすぐ病院に運ばれた。賢治は脊髄に損傷がひどくて、下半身不随。なのに俺は骨折だけで済んだ。ショックだったよ。親はものすごい形相で俺を責め続け、泣きわめいた。あいつらにとって見れば、たった1つの優秀な宝物を、不良と連んでくだらないがらくたのようになった俺に壊されてしまったんだから。

「俺はただ、あいつを救ってやりたかった。なのに、結局あいつを取り返しのつかない状態に追い込んでしまっただけだ」

それからも俺はバイクをやめることはなかった。むしろ、事故の前よりも無茶な運転をして、何度も警察に補導されたり。親ももう諦めて何も言わない。賢治にどうしてやることもできなくて、そんな自分に腹が立って、居ても立っても居られないんだ。俺はこうして普通に暮らせるのに、賢治の足は永遠に動くことがない。俺と賢治、一体何が違ったんだ?どうして俺じゃなかったんだろう。動けなくなるのが、どうしてあんなに優しい眼差しを持った賢治なんだ。どうしてあいつがこんなことになってしまったんだろう。俺がなればよかったんだ。生きてる価値もないような俺が・・・みんな俺のせいだ。バイクでガードレールに突っ込もうとしたこともある。死んでやろうと思ったんだ。でも、できなかった。俺は必死でブレーキを握ってたよ。
 
 そう言った修哉の眼差しが、私の心を強く撃つ。

「今ではもう、ほとんど会わないけど、賢治は一度も俺を責めたことはない。足が動かなくなったのに、恨み言一つ言わないんだよ。いっそ責められた方が楽だ。どうしてあんな風に笑っていられる?どうして・・・。今、中2なんだ。あのころの俺と同じ。でも、俺のように過ごすことはできない。俺はあいつに何もしてやれない」

「そんなこと、ないよ」
私は考えたあげく、こう言った。
「賢治くんは修哉に感謝してるんだよ。きっと修哉の思いが通じたんだ。賢治くんは感じ取っていたんじゃないかな。こんなにも速く駆け抜ける事ができた自分を」
修哉はしばらく黙っていたが、コップに注がれた水を見ながら少しほっとしたような表情で言った。
「そうかな」
「うん」


 それから私たちは一緒に私の家へ向かった。私たちは、ひっそり寄り添って歩いた。まるで広い海の中で出会った一対の海豚のように。
月の光が私たちに降り注いで、お互いの心を照らし出す、神秘的な夜。
そう感じることができたのは、夜が私を迎えてくれているから?闇を恐れて泣いていた私を、そっと受け止めてくれると知ることができたから?修哉が隣にいたから――?
そんなつかの間の至福も、私の家に着いたとき、あっという間に崩れ去るとも知らずに、私は月光を仰いだ。


 そこで私を待ち受けていたものは、忘れかけていた、いや、忘れたいと願っていたものだった。

 父親が帰っていた。帰っていたというのは相応しくない。私の机を開けてお金をあさっていたのだった。

何?これ・・・。

「何してるの・・・?」
私の声に気づくと父ははっとしてこっちに振り返る。その時のあいつの顔に有ったものは、一体何だったのか?憎しみ、恐れ、悲しみ、苦しみ?どれも違う。

私が何か言いかけようとすると、父親は逃げだそうとして、窓を開ける。しかし、あいつが窓を開けようとしたとき、私の横から修哉があいつに向かって飛び込んだ。

ほんの一瞬の出来事だった。

誰かが何かを叫んで、何かを殴った。そして何かは激しく机に角にぶつかり、何かからザクロ色の血が静かに、しかし際限なくどんどん染み渡る。


ほんの一瞬の出来事だった。


「おい、しっかりしろよ・・・!」

そう叫んだのは、修哉だった。私は呆然とその場に立ちつくす。
父親はぴくりとも動かない。目を開けたまま、頭の後ろに血の海を作りながら。
「死んでる・・・」
修哉のシャツに血が付いている。その綺麗な赤い染みは、私を本能的に動かした。

逃げよう。

私たちはこんなところにいちゃいけない。
逃げなきゃ。何処か・・何処か遠くへ。

「修哉、早く!ここから離れよう」
私は自分のバッグをつかむと修哉の腕を掴んで夢中で走った。

何処か遠くへ。その言葉だけを頭の中で繰り返しながら。


父親の最後の顔を何度も思い返してみる。それは私と同じ、結局逃げ切れずに終わった敗者の顔。あたしとあいつはやっぱり同じなんだと分かるまでずいぶん時間がかかった。私はあいつを憎んで、軽蔑することで自分の存在を確かめて生きていたんだ。

「殺すつもりなんか・・・俺はただ・・・まさか、死ぬなんて」
「わかってる。アレは事故だよ」
私たちは小田急線で江ノ島海岸までの切符を買った。どこに行けばいいのか分からなかった。修哉も私も混乱していて、何をしゃべっていたのかもよく分からない。ただ、真実は、私の父親が死んだこと。
 
でも、本当に修哉がやったの?
私には信じたくなかった。悲しいとか、悔しいとかいう気持ちはない。ただ、この先のことを考えて、修哉を失いたくない、それだけ。そのことだけが今の私を動かしている。
 
湘南の海はすぐそこだった。私たちは海の近くを走る国道を歩いた。塩のにおいが海を引き立て、私たちに立ちふさがる大きな壁を、少しだけ低くしてくれる。

 朝がくるまで歩き続けた。修哉も私も、一言もしゃべらなかった。もし何かしゃべったら、そこからもう戻れないところまで行ってしまうような気がして、恐かった。やっと見つけた、小さな幸福が――。

 海の向こうから微かな光が見えてくる。
夜明けだ。
暗い夜を明るく色づけて全てのものを暖かく包み込んでくれそうな、朝焼け。私たちのことも、そのまま飲み込んでしまってほしいと思う。そうすれば、私と修哉は永遠に一緒になって生きていけるのに。このまま時間を止めてしまいたい。
 
せめて、もう少しだけ幸せをくれてもいいでしょ?神様・・・

 修哉は不意に足を止めた。湘南警察署の前まで来てしまったのだ。私は「行こう」と言って修哉の手を引いた。しかし、修哉は私に言った。

「自首するよ」

私は耳を疑った。自首・・・?

「何で・・・?修哉は何も悪くないよ。みんなあいつが悪いんだから、しょうがなかったの。自首なんてすることない」
「例えそうでも、俺が殺ったことには変わりはないんだ」
「そんな・・・」

「自首したら、長い時間帰ってこられない」

修哉は私をまっすぐ見て言った。

海の方から波の打ちつけては引いていく音が静かに聞こえてくる。それは塩の匂いとともに私たちを包み込んだ。

「長いって・・・・?」

人を殺したらどのくらい罪を償わなくてはならないのかくらい、分かっている。でも、そんなこと考えたくなかった。

「ずるいよ・・・!」
私は叫ぶように言った。
「あたしは修哉に救ってもらった。修哉なら、信じられると思った。だからあたしは修哉を好きになったのに。なのにまたあたしを一人にして行くの・・・?」

お願い、一人にしないで・・・。

涙が私の頬を伝わり、止まらなくなる。もう私には自分を押さえる理性のかけらも涙に溶かされしまった。

私の涙を指で拭い、修哉は笑った。
「そうだよ。俺は君を・・・、真智を愛してる。例えこれから何があっても、それはずっと変わらない」
泣かないで。俺はずっと君を守り続ける。だから、俺を信じて・・・。

 私たちはきつく抱き締め合った。涙が止まらない。涙でぼやけた修哉の顔を、私はかたく目に焼き付ける。修哉は私の乾いた唇にそっとキスをした。

 修哉は警察署に向かって歩き出す。

「あたし、死んじゃうよ・・・!修哉がいなくなったら、生きてる意味なんかないよ・・・!」
国道の向こう岸で振り返った修哉は、微かな笑顔で言った。

「君は死なない」
・・・真智を信じてる。

すぐに大型トラックが私たちの前を走り抜ける。トラックが走り去ったあと、もうそこに修哉の姿はなかった。
 
私はそのとき、例え目の前からいなくなっても、決して消えることのない人がいることを知った。



X

 梅雨も明けそうな7月の暑い気温。私はバイトの帰り、雪奈と一緒に渋谷で夏物の買い物をした。突き抜ける空の青さは、今までに見たことがないような綺麗なライトブルー。なんて心地の良い空なんだろう。
「ねぇ、真智って最近ジルとか着てるよね。見にいこっか」
「うん」
私たちは明治通りに抜けるトンネルをくぐって緑の公園の前を通る。

「・・・なんか、潮の匂いがする」

私は呟いて振り返る。

 修哉・・・・? 
 
あまりに変わることのない周りの景色。そしてあまりに気づかれることのない、多くの変化。この木の葉っぱも、公園の砂も、空に浮かぶ雲も、みんな少しずつ変わってる。誰もそんなことに気づかなくても、私には分かる。変わることなく、変わっていく。そんなことが、私たちの日常で溢れているんじゃないだろうか。
 
ねぇ修哉。

例えば、名もない小さな花が咲いて、この世界に新しい色が一つ生まれたときの喜び。
雲が流れ、その切れ間から空が覗いたときの嬉しさ。
そんな小さな事に、意味が有るんだと教えてくれたのは、あなたでした。あなたを通してそんな小さな事でも、人の心に何かを与えることがあるんだって分かったんだ。

全てのことに、思いがあると知ったこと。
あなたに会えたことを想って、涙が出ること。
そんな自分を信じ、許せること。
それから――・・・。

 私たちは天使でも、悪魔でもなかった。きっと、ただの人間だったんだ。
人を信じ、裏切られ、それでも人を信じて、愛することしかできなかった、ただの人間。

それは、美しく、儚いもの。それはきっとこの先私を救い、赦し、そして傷つけるものであり続ける。それでも私は、信じることを選んだ。この溢れ出る深い輝きを無くさないように。
信じることで、私は今ここにいる意味を知り、かけがえのないあなたを感じることができるのだと。
 
今、かなえたい願いはたった一つ。
どうか、あなたも目を閉じて、耳を澄ませて。きっとそこには、大切な宝物が見えるから。


Now the joy of my world is in you.
Now the happiness of my world is in you.

Now the belief of my world is in you.
Now the deep sparkle of my world is in you.