ストロベリージャム

 

T

 4月7日

 1987年6月20日。

 東京都世田谷区生まれ。

 僕より先に生まれた姉一人に、姉より先にこの家に住んでいる猫が一匹。

 それに父と母。

 僕が生まれたときには、もう、全てのものが満足に揃っていた。

 何かが不足していた時代を僕は知らない。

 そんな時代はすでに、多くの人に忘れられている。

 僕は毎日僕に訪れる出来事に平凡に対処し、全てをそこそここなしていく。

 欲しいものは何でも手に入り、何不自由なく暮らしているこの日常で。

 そんな毎日を、退屈に感じているであろう、僕をはじめと した多くの人達がいる。

 

 僕は、すでにこの世界に飽きてしまったんだ。
 

明日から、中学三年生になる。

 朝の日差しがカーテンの隙間から侵入し、僕の瞼に容赦なく突き刺さる。

僕は眠い目を半分だけ、やっとの思いで開け、頭の上に置いてある目覚まし時計をチェックした。

時計は5時13分を指していた。

 なんだ、まだ時間じゃないじゃないか。

僕はベットの下に丸まって落ちかけた掛け布団をベットの上まで引き上げると、頭から布団をかぶり、日差しを完全に防御した。

その瞬間、下から母親の僕を起こす声が聞こえてくる。

僕は寝ぼけた声で一応返事をし、またしばらく眠りに入る。

「勇治、起きなさいって言ってるでしょう。あんた今日始業式なんだから、遅刻したら大変じゃないの」

いきなり掛け布団をはがされた僕は、しかたなく目を開ける。

目覚まし時計はさっきと同じ時刻を指している。

僕はため息混じりに母親から掛け布団を奪い返した。

「まだ全然時間じゃないじゃん。ちゃんと時計見てよ」

「もう6時30分過ぎてるの。いい加減に起きなさい」

6時30分過ぎ?僕はもう一度枕元にある目覚まし時計を見る。

時間は、やっぱり5時13分―?

よく見ると、秒針が動いていない。

この時計、止まってやがる。

せっかくまだ眠れると思ったのに。

僕はしぶしぶ体を起こした。

カーテンから覗く外の様子はすっかり明るくなっているようだ。

「早く起きて、さっさと朝ご飯食べちゃってちょうだい」

「分かってるよ」

母親が部屋から出て行った後、もう一度横になった。

このままじっと目をつぶっていると、すぐにでもまた夢の世界へ旅立ってしまいそうだ。

 ベットから起きあがり、床の上で左右ひっくり返っているスリッパを履こうとして、止めた。

もう春なのだ。

こんなに暖かいんだったら、裸足で床を歩いた方が気持ちがいいだろう。

 とうとう春休みが終わり、僕は今日から中学三年に進級する。

やっと中学も最高学年になった。

だけど、嬉しいわけでもないし、寂しいわけでもないし、別に学年が一つ上に上がることなんて、ただ一つ年をとるだけのこと。

なにも、始業式だからって遅れたら大変、なんて大げさだ。


 机の上の日記帳に目が止まった。

昨日のページを開いてみる。

中学二年だった昨日の僕が書いたそのページは、なんだか今見ると、知らない誰かが書いたような気がする。

少しだけ、中学三年になったら、何か変わるかも知れないと期待して、そのページを閉じた。

毎日平凡な日々しか訪れない今までとは、もうお別れしてやろう。

「お母さん、あたしのパンにジャム塗っといて!」

姉の声が僕の部屋まで聞こえてきた。

彼女はどこにいても声が大きい。


 学年が変わるからって何も変わらないと分かっているけど、やっぱり何かに期待している自分がいる。

だけど、きっとみんなそんなもんだ。

みんなきっと、何かとびきりなことが起こらないかって内心期待してる。

そういうのってちょっとダサい感じするけど、僕も例外じゃない。  

「勇治、あんたパンに何つけるの?マーガリンで良い?」

下から母親の声が聞こえてくる。

僕は一瞬考えて大きな声で返事をした。

「ジャムにしてよ。昨日姉ちゃんがつけてたヤツ!」

 始業式はごくごく普通に行われ、その後体育館では入学式が行われる。

僕たち中学三年生は教室で担任の教師が来るのを待った。

僕は窓ぎわの席で、一人で携帯のゲームに夢中になっている池ちゃんの横に座る。

池ちゃんはテトリスのレベルを54まで上げていて、僕には見向きもしない。

僕は横からゲームの様子をじっと見つめた。

「あ、積み上がる」

「やべ」

次の瞬間、画面に『GAME OVER』の文字がでかでかと現れた。

池ちゃんは悔しそうに舌打ちをして、僕を見る。

「なんだよ」

「貸して」

「お前自分のでやれよ」

「今日ケータイ忘れた」

僕は池ちゃんから携帯を借りると、テトリスの続きを始める。

池ちゃんは黙って横からのぞき込むようにしてゲームを見る。

「それもっと右だよ」

「右?」

僕は言われた通りにブロックを右に動かす。

「おい、それは違う、左」

「・・・」

「違うって、左だよ」

「池ちゃん」

「ん?」

「俺がやってんだけど」

「お前下手くそなんだよ」

「そんなことないよ」

「貸せって。見本見してやるから」

そう言って池ちゃんは僕から携帯を奪い返し、はじめからやり直した。

僕は仕方なく一緒に携帯の液晶をのぞき込む。

ゲームをやりながら、池ちゃんが僕に喋りかける。

「今日、直樹どうした?」

「来てない?」

「来てないから聞いてんだろ。あいつ、こういう行事ごとすぐサボるな」

「うん」

「俺もサボればよかった。ゲーセンで鉄拳やってた方がマシ」

「うん」

あーもうコレ飽きた、と言って池ちゃんは携帯を机の上にほっぽり投げた。

僕は携帯を取ると、テトリスの続きを始める。

「お前勝手に使うなっつーの」 

「いいじゃん。使ってないんだから」

池ちゃんはイスの後ろ足に重心をかけて、危ういバランスを保ちながら、大きなあくびを2回連続で放った。

僕は何度やってもすぐに積み上がるブロックの固まりに少しイライラしてくる。

窓からは春の生暖かい風が入り込み、カーテンを揺らしていく。


 教室中を見回してみると、みんなそれぞれの場所にかたまって、笑って話をしたり、携帯の着メロを自慢したりしている。

三年になってもクラス替えが無かったので、今までと何も変わった様子はない。

変わったのは、教室の位置が2階から3階になって窓から見える視界が少しだけ高くなったこと。

あと、何か変わったことはあるんだろうか?

「勇治、ケータイ返せ。メール来てる」

池ちゃんに言われて見ると、携帯の改造したアンテナが七色に光っている。

画面にはメール受信マークが表示されていた。

「あ、ごめん」

池ちゃんはメールを読んで、僕に言った。

「今日学校終わったら、いつものゲーセン行こうぜ。直樹も来るって」

「いいよ。でも、今日いつ終わんだろう」

まだ担任は来る様子がない。

こういうなんでもない時間の教室は、野放し状態にみんながうるさい。

「じゃあもう帰ろうぜ。あいつ、いつになったら教室に来るんだか分かんねぇし」

池ちゃんはイライラした顔で窓から職員室を見下ろして言った。

「うん、じゃ帰ろう」

僕と池ちゃんはなんにも入ってない、ぺったんこのカバンを持って帰ろうとする。

教室を出るとき、クラス委員の女の子に呼び止められた。

「姫島くん、どこ行くの?帰る気?」

「え、うん」

「だめだよ、3年生は教室で待ってなさいって先生言ってたじゃん」

「でも、なかなか担任来ないし。お先に」

そうしている間に池ちゃんはさっさと教室を出て廊下を歩いていく。

「池田くんに言ってよ、戻るように。あたしが怒られちゃうんだから」

「何で俺が。自分で言えば」

「あの人はあたしが言ったって聞いてくれるわけないじゃん」

「池ちゃんもう行っちゃったし。悪いけど俺も帰るから」

「だいたい林くんも今日どうせサボってんでしょ。学級委員のくせにさ」

「知らないよ、直樹のことは」

僕は肩をすくめ、教室を出て池ちゃんのあとを追った。

2階の踊り場の所に、池ちゃんは座っていた。

「ごめん、行こ」

「鷹野ってうるさくない?学級委員とかいってただ威張ってるだけじゃん。直樹もよくあんなのと一緒に委員やるよな」

まあ、学級委員やるってトコからして俺には全然意味分かんないけどさ。

 池ちゃんは自慢の七色アンテナを出したり引いたりしながら、はなうた混じりにリズムよく階段を降りていく。

僕も何となく足取り軽く、軽快に階段を降りる。

 下駄箱のある1階の玄関は扉が開いているため、春風が中まで入り込み、桜の花びらを入り口の四隅にため込んでいた。

まだ12時前。

外は少し暑いくらいのいい天気だ。

春って言うのは、どうしてこんなに気持ちがふわふわしてくるんだろう。

きっとこの気温のせいだ。

寒かったところに暖かい風が吹くから、凍って固まっていたものが、少しづつ解けていく。

僕の体もそうなんだ。

だから気持ちが軽くなって、ふわふわしてる。

「グッバイ、学校!」

池ちゃんが調子よく3年の教室に手を振った。

ここから見る限り、まだみんなは待ちぼうけを食らっているようだ。

「おい、勇治、後乗せろよ」

「オッケー」

僕は学校の校門の所に置いておいたマウンテンバイクのチェーンを外す。

僕が自転車に乗ると同時に、池ちゃんも後に足をかけてバランスよくつかまる。

「ようし、行こうぜ」

僕は頷いてペダルを踏み込んだ。

そして、学校の前の横断歩道を自転車で突っ切り、すぐに最初の角を右に曲がり、駅の方に向かう。


 やっぱり、3年になっても、なんにも変わらないみたいだ。

たしか、2年の終了式も、こうやって池ちゃんと直樹と、学校を抜け出したんだ。


 ゲーセンの前で急停車すると、池ちゃんは一瞬バランスを崩し、前につんのめった。

「アブねぇ」

「ごめん」

僕たちは自転車を降りて、あまり人のいないゲームセンターの中に入る。

ゲーセンの中に一人でバイオハザード2に真剣に取り組んでいる直樹がいた。

僕たちが近づくと、一瞬こっちを見て、またすぐゲームに戻る。

「早かったな。もう学校終わったわけ?」

直樹はゲームをしながら話すという余裕を見せた。

「いや、途中で帰ってきた。あのままずっといたんじゃ、いつ帰れるかわかんねぇよ、マジで」

池ちゃんは教室の様子を思い出したように、顔をしかめる。

「直樹、鷹野が怒ってたよ」

「鷹野?何で」

「学級委員のくせにサボってるって」

「ああ、そうそう。お前よくあんなうるさいのと一緒にやってられるよな」

「いいよ、ほっとけば」

直樹はゲームの画面から視線を外すことなく、あっさりと答えた。

「ていうか腹減んない?」

僕はさっきから鳴り続けているお腹を押さえ、池ちゃんに聞く。

学校を出たのは12時少し前だ。

池ちゃんはすでに直樹の隣でゲームに集中していて答えてくれない。

直樹が代わりに僕を見た。

「じゃあマックでも行く?」

「うん。池ちゃん、行かない?」

池ちゃんはすぐにゲームオーバーになってしまった画面を見つめ、また悔しそうに舌打ちをした。

「なんだよ、これ。いっつも最後のトコでやられんだよ」

「昼食いに行こうぜ」

直樹が立ち上がり、池ちゃんに向かって言った。 

「直樹、あそこどうやんのか教えてくんない?」

「後で教えてやる」

池ちゃんは渋々立ち上がり、僕たちはゲーセンの隣にあるマックへ向かう。

いつも遊んでいて腹が空いたらマックへ入る。

決まりきったパターンだ。

これも今までとは変わらない。

池ちゃんはいつもダブルバーガーのセットを頼み、直樹はたいていナゲットとコーラを注文する。

僕はチーズバーガーのバリューセット。

別にチーズが好きなわけでもないけど、ここに来ると、何故かいつも頼むものがコレだ。

何を食べようかなんて、考えるのが面倒くさい気もする。

別に何を食べたって同じなんだから、と直樹が言ってたことがあるけど、その通りかも知れない。

何を注文したって大して変わりゃしないのは、メニューを見ればだいたい分かる。

 今日も池ちゃんはやっぱりダブルバーガーセットを注文し、直樹はナゲットとコーラを単品で注文した。

僕は少し迷ったが、結局チーズバーガーにした。

 僕たちは2階席の一番大きなテーブルを占領し、いつものようにだらだらと話を始める。

池ちゃんはまださっきのゲームの攻略方がわけわからん、とくり返す。

直樹はコーラを飲みながら、後で教えるって、と少し煙たそうに答える。

「そういや、勇治があのゲームやってんの見たことないかも」

「あー、俺もない。勇治はいっつもバイクに乗るやつしかやんないよな」

池ちゃんがダブルバーガーを口一杯に詰め込みながら言った。

「だって、あのゾンビみたいの気持ち悪いじゃん」

「なんだそれ。別に?あいつらを撃って殺してくのが面白しれぇんだよ」

なぁ、直樹、と池ちゃんは相づちを求める。

直樹はそっけなく、まあね、と言ってナゲットを口に入れた。

「ていうか、勇治は殴ったり、殺したりするの好きじゃないんだろ」

直樹が僕のフライドポテトをつまみながら言う。

僕は少し考えて、よく分かんないけど、と答えた。

「勇治、お前いっつもよく分かんないって言うじゃん」

池ちゃんは少しもどかしそうに僕を見る。

 確かに、僕は「よく分かんないけど」を毎日連発している。

何かにつけ、「よく分かんない」で終わらせてしまうのは、自分では、たぶん面倒くさいからだと思っていた。

だけど、最近あまりにも「よく分かんないけど」の連発で、池ちゃんや親に突っ込まれることもしばしばで、いささかまずいかも知れないと思い、よく考えてみることもある。

そこで気が付いたのは、驚いたことに、僕は本当によく分からないのだ。

自分で、ただ面倒だから、と思っていた「よく分かんないけど」は、いつの間にか僕自信の考える力を失わさせてしまったのだろうか?

それとも、最初から僕には考える力が無かったのか。

今となっては、それも「よく分からない」ことの一つになった。

 僕は少し肩をすくめ、池ちゃんに「ごめん」と言った。

池ちゃんは「まぁ別にいいけどさ」と、大して気にも留めずに残りのハンバーガーを全部口に入れ込んだ。

「よし、戻るか。直樹、ちゃんと教えろよ」

「分かってるって」  

池ちゃんの関心は、完全にゲームの攻略方法に向けられているみたいだ。

僕と直樹は少し顔を見合わせて、一人はりきって階段を降りていく池ちゃんの後を追った。

 池ちゃんは僕たち三人の中で一番ゲーム好きだ。

その上、一番気が短いし、大して消毒もせずに開けたピアスホール3っつが赤く腫れていて痛々しく、僕はそれを見て、一瞬耳がちぎれているのかと思ったほどだ。

直樹は少しくせっ毛で、ゆるいパーマがかかっているような髪をしている。

僕たち三人の中で一番頭がいいし、ゲーム好きの池ちゃんよりもゲームの腕は上だ。

2年から継続して学級委員を一緒に務めている鷹野とはあまり仲が良くなく、この前も学級費の集め方で彼女と言い合いをしていた。

直樹自身、自分は責任感なんて無いと言っていたが、その分析は正しいんじゃないかと思う。

 二人のタイプは全く違う。

だけど、僕たちは何故かいつも一緒に遊んでいる仲間だ。

池ちゃんが赤色なら、直樹は青色。

僕はそんなイメージを二人に持っている。

じゃあ、僕の色は?

なんとなく、信号機みたく黄色だったらおもしろいのになぁ、とぼんやりと一人で考えた。 

U

 次の日、学校に行くと早速担任に呼び出された。

僕たちは揃って職員室の入り口の横に立たされる。

「お前達、なんで昨日帰ったんや」

担任の横沢は関西訛りの抜けない口調で僕たちに渋い顔で問いかける。

彼は白髪の目立ち始めた髪の毛に手を当てながら続けた。

「鷹野が困ってんのや。林、お前は学級委員なんだから、もう少し助けてやれ」

「すいません」

直樹はすんなりと頭を下げ、横沢は少し拍子抜けしたような顔をした。

「あ、けどお前は昨日休みやったな。でも、鷹野はお前ら3人がサボってる、言うてたぞ」

僕たちは3人顔を見合わせる。

仕方なく、直樹が口を開いた。

「次からは気を付けます」

「たしか、終了式の時もそう言ってたな」

横沢は池ちゃんに向かって言った。

「もう3年になったんやから、もう少ししっかりせいや」

「なんで俺を見て言うんだよ」

「や、すいません。では失礼します」

直樹が食いつく池ちゃんを抑えて、丁寧に礼をした。

僕もつられて少し頭を下げる。

「よし、気を付けなさい。行っていいぞ」

僕たちは納得の出来ない顔をしている池ちゃんを押しながら帰ろうとする。

「あ、姫島はちょっと残れ」

「姫島、お前はあの二人と仲がいいな」

横沢は眼鏡の奥の瞳を大きくして僕に笑いかける。

「はい」

僕は教室に戻っていく二人の後ろ姿を眺めながら、ほんの少し頷いた。

「池田はなかなか威勢が良すぎて、俺の言うことをきかん。林も、口では良いように言うんやけど、あいつは口ばっかりや。学級委員のくせにちぃっとも責任感が無いみたいで困ってるんや」

僕は黙って下を向いておく。横沢はまた白髪混じりの頭を触りながら言う。

「姫島がしっかり二人を注意してやらんと。分かるやろ?よろしく頼むからな」

「はぁ」

僕は曖昧に返事をする。

しかし、横沢は僕の返事を聞くと、よっしゃ、行っていいぞ、と言って僕の肩を叩いた。

「失礼します」

僕はまた小さな声で、少し頭を下げる。

「お前ももう3年なんや、しっかりせいや」

横沢は池ちゃんに言ったのと同じ言葉を僕に言うと、職員室に入っていく。

 なんか、けっこー適当なやつだな。

僕は半分横沢を馬鹿にして、半分やっぱり適当なヤツで楽チンだな、と少し安心しながら廊下を走って教室に戻る。

「姫島がしっかり二人を注意してやらんと」

やっぱり、「注意」の意味の黄色が僕の色なんだろうか。

そうしたら、僕たち3人で信号機の出来上がり。

 なんて、くだらねぇよなぁ。

僕は少し苦笑いしながら、二人のいる教室の窓ぎわに急いだ。


 始業式から早くも一週間が経った。

僕はまたカーテンから差し込む朝の日差しに起こされ、寝ぼけた顔で、まだ鳴っていない目覚まし時計に目をやった。

そして、ベットから落ちかけている掛け布団を上まで引き上げると、また頭からかぶってもう一度眠りに入る。

しばらくして早速目覚ましが鳴り響く。

仕方なく手探りで時計を止めると、またしばらくぼうっと目をつぶった。

 ふいに横の方に人の気配を感じる。

僕はビックリして目を開けた。

「何してんだよ」

そこには姉が立っていた。僕は少し怒って起きあがる。

「お母さんに起こせって頼まれたんだよ。勇治もういい加減自分で起きなよ」

「うるさいな。今起きようとしてたんだよ。姉ちゃん勝手に部屋入んなって言ってんじゃん」

「仕方ないでしょ、お母さんに頼まれたんだから。勇治が自分で起きればいいことだし」

「だから」

僕が言いかけると、「じゃ、起こしたからね」と言って姉はさっさと部屋を出ていった。

「ったく、勝手に出て行くなよ」

僕はイライラしながらベットから起きあがり、部屋を出た。

 顔を洗ってからリビングに行くと、もうすっかり朝食の準備ができあがっていた。

姉はすでに半分食べ終わっている。

僕は席に着くと、焼けたパンの上にストロベリージャムを塗り始める。

「勇治、紅茶自分で入れてよ」

台所で忙しそうにしている母親が、テーブルの上にある、ティーポットを指して言った。

僕は黙って頷いて、ジャムを塗ったパンにかじりついた。

 ここ一週間、毎日パンにこのジャムをつけて食べている。

甘すぎて甘すぎて、最初はもういらないと思ったけれど、食べているうちにだんだん美味しくなってきた。

いや、正確にはただこの味に慣れて、他のバターを冷蔵庫から出すのがめんどくさいだけかも知れない。

でも、苺って本当にこんな味だっけ?

「行ってきまーす」 

僕が食べ終わらないうちに、姉が学校に行く。

僕はそれを目安に、毎朝食事を済ませ、自分の支度に入るのだ。

「ほら、あんたも遅れるわよ」

「分かってるよ」

僕はジャムで甘くなったパンを一気に食べると、紅茶を少し飲んで、制服を着るために自分の部屋に戻った。

 いつも変わらない朝の風景。

制服を着て、髪を整えて、マウンテンバイクで飛ばして学校まで5分強だ。

途中、池ちゃんの家によって、彼を後に乗せていく。

「あ、やべ携帯忘れた」

池ちゃんが自転車の後で呟いた。

「え、じゃ戻る?」

「いや、俺が走って取ってくる。勇治は先行っちゃっていいよ」

「別に戻ってもいいよ」

「いい、いい。じゃあな」

そう言って後から飛び降りると、池ちゃんはダッシュで今来た道を戻っていく。

僕は一人で学校に向かってペダルをこぎ続けた。

 学校の正門の隣にある木の陰に自転車を止めると、いきなり後から肩を叩かれた。

僕は一瞬どきっとする。

自転車通学は禁止なので、もし、教師に見られたら、また横沢に呼び出しを食らってしまう。

「おはよ。池ちゃんは?」

直樹だった。

僕は一つため息をついて答えた。

「ケータイ忘れたっつって取りに行った。てゆうか、なんで直樹ここにいんの?いっつも裏門から来るじゃん」

「別に。あいつに呼び出された」

直樹が指した方には、散った桜の花びらをほうきで掃いている鷹野がいる。

「何してんの?」

「各学年の学級委員がこれから1週間、朝掃くんだと」

直樹は心底面倒くさそうに言う。

僕は少し驚いて直樹を見る。

「よく今日来たね」

「あいつがうるさいから」

そう言った途端、鷹野がこっちを向いて直樹に叫ぶ。

「林くん、話してないでちゃんとやってよ。ちょっとちりとり持ってきてくれない?」

「は?自分で持ってくれば」

直樹はそう言うと持っていたほうきを門の壁に立てかけ、横の花壇の淵に腰掛けた。

僕も一緒にそこに座る。

「明日から、毎朝なんてやってらんね」

直樹は珍しくイライラした顔で僕に向かって言った。

「でも、明日も来んでしょ?」

「誰が」

「来ないの?」

「来ないよ」

直樹はまたいつものようにあっさりと答える。

「別にいいんじゃん。どう思う?」

「よく分かんないけど」

「またか」

直樹は笑って言った。

また、やってしまった。

「ごめん」

「何が?」

僕は少しばつが悪そうに下を見る。

直樹が花壇から立ち上がり、ほうきを持って花壇の周りのある砂をいじる。

「俺、教室先に行ってるよ。もうすぐ予鈴なるし」

「おう。俺と鷹野はもう担任に言ってあるらしいから。まぁ、もう掃除終わるけど」

「じゃあ、あとで」

僕は直樹と別れ、昇降口の前まで少し早足で急いだ。

予鈴まであと1分くらい。

別に遅れたっていいけど、遅れると何かしら一言言われるので、それを聞く気にはなれない。

 僕が教室についてすぐ、担任の横沢が教室に入ってくる。

ギリギリで間に合った鷹野が朝の号令をかけた。

「あれ、鷹野、林は一緒じゃないんか」

横沢は息を切らしながら号令をかけた鷹野に聞いた。

鷹野は少し不機嫌そうに首を傾げる。

「知りません。別に一緒に帰ってきたわけじゃないから」

そうかそうか、と曖昧に返事をした横沢は、少し気にしながらも出欠席の確認を、また適当にすませ、朝礼を終える。

 一時間目は国語だ。

僕は大して興味もない国語の教科書を、ぼうっと見つめながら、ひたすら時が過ぎていくのをやり過ごす。

遠くで、教師の声がリズム良く、お経のように流れているような気がした。

 池ちゃん、遅いな。

僕はぼんやり考える。

ぼんやり考えていると、なんだか、周りの様子もぼんやりと僕を取り囲んで、クラスメイトの話し声も、教室にある黒板も、なんだかふわふわして、僕の感覚器官と曖昧に触れ合う。

曖昧に触れ合ったそれは、ぼうっと僕の中の意識に埋もれて、見えなくなっていく。

僕の中にどんどん埋もれて、僕の一部になる。

僕の中に埋もれて、僕と見分けがつかない。

だけど、僕はそれを僕の中に取り込んではいない。

僕の中にあるそれは、僕に溶けてしまったけれど、決して僕になることはなかった。

何を見ても、何を聞いても。

僕の中にあるのに、僕には支配できないものが、溢れていく。

気が付くと、僕には手に負えないくらいのものが、僕からどんどん溢れだしている。

どんどんどんどん。

僕の中から、色々なものが溢れていく。

僕が知らない色々なものが溢れていく。

僕の前に座っているクラスの女の子。

僕の席から見える半分開きっぱなしのクラスロッカー。

廊下に貼ってある「覚醒剤防止キャンペーン」のポスター。

僕が見て、僕が記憶しても、僕は全く関知していないものが。

僕の中から。

ボクノナカカラ。

あれ?

僕は今何を考えていたんだっけ?

なにかをぼんやり考えていた。

なんだったっけ?

よく分からない。

何を見ても、何を聞いても。

まただ。

 チャイムが鳴り響いた。

僕は急にはっとして、目の焦点が黒板の方に定まった。

意識も現実に定まる。

黒板には端から端までびっしりと板書してあった。

教師が「今日はここまでにする」と言って、チョークの粉を神経質そうに振り払っている。

黒板、別にいつも書いてないからいっか。

 僕はノートも出さずに、教科書の表紙だけでやり過ごした一時間目を終えるために、鷹野の号令に従って起立した。

教師が言った。

「確認するが、今日の欠席は池田だけでいいんだな」

池田、と言われて危うく聞き流すところだったのを何とかくい止める。

今日の欠席?

池ちゃん、今日まだ来てないのか。

直樹の席に振り向いた。

一番後の席の直樹は、起立をしていなかったけれど、教師からは死角となってまるで見られていないようだ。

この光景、前にもどこかで見たことがあるような気がする。

前にも・・・?

いや、毎日のことだったかな。

それとも、僕が見た昨日の夢だっけ。

やっぱり、こんな光景初めてかも。

もう、全てがはっきりしない。

全てが何かによって神経麻痺を起こされたようにはっきりしない。

 ひとつ、僕のどろどろに混ざり合った記憶の中で、分かることがあった。

僕は今日も昨日も、甘すぎるストロベリージャムを食べてきた。

 なんだか、この世界は僕が毎朝食べる、ストロベリージャムだ。

 どろどろして、甘くて、みんなたくさんって顔で、うんざりしている。

だいたい、このストロベリージャムは、本物の苺なのかもわからないじゃないか。

ただ、化学調味料によって苺味にみせてるだけで、ホントは全然苺なんかじゃないのかもしれないのに、みんな黙ってこのジャムを食べる。

この世界も、本物じゃない、偽物の作り物ってこともあり得るんだ。

だけど、僕たちはどろどろの甘すぎるジャムの中で、完全に味覚も麻痺して、本物と偽物の区別が付かない。

こんな毎日、飽きちゃったよ。

だけど、逃げられない。

どんなにもがいても、逃げられない。

みんなは平気なの?

みんなは毎日楽しいの?

僕は抜け出したいと思った。

この世界から。

この現実から。

だけど、どろどろのジャムが僕にまとわりついて、離してくれないんだ。

甘すぎるこの世界で僕が感じることは、一体何なんだろう。

僕は何を考えたらいい?

僕は何を欲しがればいい?

僕の周りにはたくさんのモノが溢れているから、

僕の頭で考える必要は、何もない。

欲しいものなんて、何もない。 

僕は何をしたらいいんだよ?

分からないんだ。

池ちゃんや、直樹はどう思う?

僕だって考えてみてる。

だけど、分からないんだ。

本当に本当に、僕は分からないんだよ。 

僕の思考回路は、きっと完全に麻痺してしまっているんだ。

 教室を見渡してみる。

休み時間が終わって、すでに2時間目が始まろうとしている。

でも、教師はまだ来ていない。そこへ、鷹野が前の入り口から入ってきた。

そして、手に持っているメモを読み上げる。

「今日の数学は自習です。自習プリントは前に置いてあるので、一人ずつ取っていって下さい。この時間の最後に私と林くんが集めますから、どちらかに持っていって下さい。」

みんなは一斉に歓声を上げた。

そして、自習と言うよりは、休み時間の延長をそのまま楽しんでいる。

僕は廊下から人の歩いてくる音がするので、入り口を見つめる。

足音が大きくなってきて、そこに現れたのは、池ちゃんだった。

 池ちゃんは僕に気が付くと、少し照れくさそうに笑って歩いてきた。

「ずいぶん遅かったじゃん」

「さっき途中で事故っちゃったんだよ」

「え?」

「車と激突!」

「マジ?大丈夫?」

「全然平気。かすり傷一つないぜ」

そう言って池ちゃんは腕や足を威勢よく動かして笑った。

僕は状況が少し飲み込めなかったが、まあ大したことが無かったんだと判断し、ひとまず安心した。

「今日数学、自習だよ」

「知ってる。超ラッキー」

池ちゃんはなんにも入っていない通学カバンを窓ぎわの自分の机に置くと、またこっちへ戻ってきた。

 直樹を見ると、一人で携帯をいじっている。

ゲームか、メールか、とりあえず、自習プリントをやっている様子はなかった。

 直樹だけではない。

誰もプリントなんかやってない。

それは、当たり前のことだけど、なんだか、少し安心して気が抜けた。

何に安心しているのかは、よく分からないけど。

「なぁ、勇治」

「ん?」

「俺らさぁ、来年受験じゃん、塾とかどうする?」

「あー、塾かぁ。もう受験なんだった」

「直樹は、あいつはもう塾行ってるだろ?サボってばっかだけど」

池ちゃんと僕は直樹を見る。

彼はまだ携帯に集中している。

「ま、でも直樹はできるからな」

「うん」

「お前は行くの?」

「池ちゃんは?」

「多分行かね。勇治は?」

「俺は、たぶんいくとおもうけど、うーん、まだわかんない」

「そっか」

池ちゃんは床に中腰で座っていたが、ぺたんと腰を下ろしてあぐらをかいた。

僕は椅子に座りながら池ちゃんの方に向かって、向きを変えた。

 教室の窓にかかっているカーテンが外の光を遮断していて、何だか暗い。

たぶん、外の天気はあまり良くないんだろう。

そう言えば、昨日の天気予報で、今日は下り坂だと言っていた。

 僕がぼうっと窓の方を見ていると、池ちゃんが少し元気なさげに、ぽつりと言った。

「今日、雨降ってきそうだな」

「うん」

「さっき学校来るとき、空が超暗かったし」

なんだか、本当に雨が降りそうだ。

池ちゃんは本当に嫌そうに、窓の方まで歩いていって、カーテンを開けて空を見ている。

僕は窓から見える真暗い空を見ながら、降らないで欲しいな、とぼんやり思うだけだった。


 僕と池ちゃんの思いもむなしく、帰りには大降りの雨になってしまった。

池ちゃんと直樹と僕は、下駄箱の前で、外の雨を見て途方に暮れてしまう。

「俺傘持ってるけど、勇治たちとは反対方向だし」

「しかも、勇治、チャリじゃん」

「やばい。この雨と風じゃあ、乗りたくないかも」

外は雨だけでなく、強い風も吹き荒れていた。

今日って、台風が来るとか言ってたんだろうか?

校庭に咲いていた最後の桜も、この天気で一気に落ちてしまうだろう。

「でも、チャリで飛ばしちゃえば、傘さないでもいけるんじゃ」

池ちゃんが僕を見て言った。

「けど、二人で乗るのは、かなり大変だ」

直樹が池ちゃんを見て言った。

「大丈夫、乗って帰ろう」

僕は二人を見て言った。

 直樹が傘をさしながら裏門の方に歩いていくのに対して、僕と池ちゃんは正門の方までカバンを頭に走っていく。

僕は急いでチェーンを外すと、池ちゃんを後に乗せて横断歩道を渡り、最初の曲がり角を左に曲がり、緑道に一気に走り抜ける。

 一気に飛ばして、池ちゃんの家の前につくと、僕は自転車を止めて、池ちゃんを降ろした。

池ちゃんはびしょ濡れになった制服をさわりながら、「サンキュ。気を付けて帰れよ」と言った。

僕は頷いてまた、一気にスピードを出して走り出す。

 雨は止むどころか、ますます激しくなっていく。

僕はさらにスピードを上げようとギアをチェンジし、思いっきりペダルを踏み込んだ。

その瞬間、急に足が軽くなって勢いで独りでに回ってしまったペダルに足がぶつかる。

あれ・・?

 僕は不審に思い、止まってペダルの方を見る。

すると、チェーンが切れてしまっていた。

はずれたならまだしも、切れてしまった。

これでは自転車に乗れない。

途方に暮れたが、もうびしょ濡れになってしまっていることを考え、何だかどうでもよくなって、一人自転車を降り、押しながら歩いた。

帰り道の途中にある、公園の中に目が止まった。

そこには、ちょうど雨宿りが出来そうな、大きなコンクリートで出来たトンネルがあった。

僕はチェーンが切れ、重たくなってしまっている自転車を公園の前に止めると、中に入る。

コンクリートのトンネルの中は以外と暖かく、雨で冷えた僕は座り込んで、ぼーっと外の激しく降る雨を見つめた。

公園のいたるところに大きな水たまりが何個もできている。

雨に打たれた水たまりは、不規則に飛び跳ね、耳が圧迫されてしまいそうな程の音を、トンネルの中に運び込んだ。

ここで更に木霊した音は、僕の感覚器官を雨音でいっぱいにしてしまう。 

雨の音以外に、感じられるものは何もなくなった。

僕はコンクリートから微かに感じるひんやりとした感覚を背中で受けながら、いつまでも雨の音だけの世界に浸り込んでいく。

雨の音だけ。

他には何もない。

感覚も、聴覚も、視覚も、嗅覚も、触覚も、みんな「雨」になった。


 僕の背中を叩いてくる感触があった。


なんだ?


僕は振り返って驚いた。


そこには、小さな雨粒が、たくさん集まって出来た、雨の人間がいる。


雨の人間?


水で出来た、妖精?


一体、なんなんだ?


僕が聞くと、それは少し雨粒を動かして、笑ったような顔を作った。

すると、周りに浮いていた水滴がどんどん集まって来て、僕の方にまとわりつく。


僕はされるままに取り囲んでいく水滴を見つめる。


水滴が僕を取り囲む。


水滴が僕を取り囲む。


しばらくして、僕の周りにいたたくさんの水滴が、また元の位置に戻っていく。

不規則に浮かんだ無数の水滴を眺めながら、僕ははっとして自分の体を見た。


体がない・・・!


腕も、足も、胴体も、みんなみんな無くなっている。


一体どうなっているんだ?


僕の体はどこに行ってっしまったんだ?


みずになったよ。


みんなみんな、みずにとけちゃったよ。


誰かが僕に話しかけている。


誰?


どこにいるんだ?


僕は周りを見渡した。

だけど、見えるのは浮かんだ水滴だけ。


浮かんでいる水滴が、僕に話しかけている。 


よく見ると、僕の近くにある水滴は、いろんな色をしている。

黄、赤、青、黒、緑・・・。これが、僕の色?

僕が溶けた水は、僕の中にあったいろんなことを色で表現している。


それぞれをよく見ると、何か分かる。


僕の知らないことや、興味のないこと。


僕の好きなものや、嫌いなもの。


みんな溶けて、水になっちゃったんだ。


あ、これはストロベリージャム!


毎日食べているから、ちゃんと分かる。綺麗な赤い色をしている。


これは、なんだ?


灰色の水滴。


よく見ても、何か分からない。


それは、あなたのこころだよ。


一番大きく、重たそうに浮かんだ灰色の水滴。


これが、僕の心?


こんな色してるのか。


なんか、汚れてるって言うか、綺麗じゃない。


僕の心は、綺麗じゃないのか。


僕はとても悲しくなった。

なんでかよく分からないけれど、とても悲しくなって、ひとりでに涙がこぼれた。

でも、その涙も水滴に混ざってしまい、見分けがつかなくなる。


じゃあ、この白いのは?


それは、あなたの・・・


 急に肩を叩かれた。僕ははっとして顔を上げる。

そこには、小さな女の子が座ってこっちを見ていた。


「お兄ちゃん、ここで何してるの?」


「え、何って、雨宿り」


「雨なんか降ってないのに?」


そう言われて、僕はトンネルの外に目を向ける。

もう、雨は止んでいた。

代わりに、心地よい夕焼けが僕の目を焼く。


なんだ、もう雨止んでんじゃんか。


僕は立ち上がってトンネルを抜けようとする。

その時、女の子がまた話しかけてきた。


「夢見た?」


「は?」


「お兄ちゃん今眠ってた時に、ちゃんと夢見れた?」


僕は曖昧に頷く。すると、女の子は安心した顔で笑った。


「良かったね。実加もね、さっき夢見たんだよ。夢見るとね、次の日良いことがあるんだってママが言ってた。だから、実加たくさん夢見ることにしてるの」


「ふうん」


「もう帰っちゃうの?」


「まあ」


「そっか。じゃあ、今度遊ぼうね」


「遊ぶ?」


「公園に来たら、みーんなで遊ぶんだよ。決まりなの。お兄ちゃん知らないの?」


僕は仕方なくまた曖昧に首を振って笑いかけ、赤く染まった水たまりを避けながら、自転車の方へ歩いていく


 帰り道、ゆっくり自転車を押しながら、さっき見た夢を思い出した。

僕が水に溶けちゃう夢。

僕の中にある色々なモノが水になって、僕から流れ出していた夢。

本当に、僕の中にはあんな風に色々なモノが詰まっているんだ。

だけど、僕は知らない。

それを僕は支配できない。

僕の心は、灰色の濁った水滴になった。


 こんな夢でも、明日は良いことがあるのだろうか。



 いつものように、僕は朝、ストロベリージャムをパンに付ける。

そして、いつものように、姉が朝家を出るときに、僕は急いで朝食を食べ終え、自分の準備をする。


 毎日変わらない朝の風景。

毎日変わらない僕の生活。

僕は本当に平凡な毎日を過ごしていく。

こうやって昨日と同じ今日を過ごして、今日と同じ明日を待ってる。


 僕の好きなモノって、何だったっけ?

僕が熱中していた遊びって、何だったっけ?

気が付くと、自分の好きなことも分からなくなっていた。


「おはよう」


僕はいつものように、自転車で池ちゃんを迎えに行く。

池ちゃんは眠そうな目をこすりながら軽く手を挙げた。


「おはよ。今日はいい天気になりそうだな」


「うん。昨日と違う」


「昨日?」


「うん、大雨だったじゃん」


「大雨ぇ?」


池ちゃんは適当にあくびをしながら、僕の自転車の後に乗る。


「あんだけ降ったじゃん」


僕はそう言って笑いながら少し後を向いたが、池ちゃんは返事をしないので、そのまま会話は終了し、僕はペダルを踏んだ。


 学校に着くと、昨日はほうきで掃いていた鷹野も、嫌々来ていた直樹も今日は来ていなかった。


「昨日は直樹と鷹野が桜の花びらの掃除してたんだ」


「直樹が?」


「学級委員でやるんだって。一週間やるって言ってたのに、もうやめちゃったのか」


「さぁ」


そっけなくかわす池ちゃんに、僕は少し不思議に思いながら、一緒に下駄箱まで歩いた。

下駄箱の上には、昨日から放り出されている誰かの上履きがぽつんと乗っかっていた。


 教室につくと、一番後の席に直樹が座っていた。

僕は一人でプリントの整理をしている直樹の席に向かう。


「おはよ。今日は掃除なしになったの?」


「お、勇治。掃除って?」


「ほら、学級委員がやるやつ。鷹野に言われたって」


直樹はきょとんとした顔で僕を見ている。

僕はびっくりして続けて説明する。


「一週間毎日やるって言ってたじゃん。忘れたの?」


「え、お前、何言ってんの?」


「だから」


「それより、昨日のロンドンハーツ見た?」


「昨日?やってたっけ?」


「やってたよ」


「見てないや」


「あ、池ちゃん。昨日ロンブーの見た?」


「見た見た。ブラックメール最悪だったし」


「勇治見逃したんだって」


「マジ?お前いっつもちゃんと見てんじゃん」


「昨日は雨で濡れたから、すぐに風呂入ってたんだ」


僕がそう言うと、二人は顔を見合わせて首を傾げた。


「昨日雨降ったっけ?」


「降ってないだろ?」


「降ったじゃん。なにとぼけてんの」


僕は笑って二人にけりを入れる。


「お前さっきから何言ってんだよ?」


直樹が真剣な顔で僕に聞いた。僕は少し苛ついて言う。


「二人して何でそんなことしてんの?」


「勇治、昨日マジで雨降ってねーじゃん」


「え?」


「降ってないじゃん」


「そんなはずないよ、降ったよ」


「降ってないって」


「降った!」


僕は怒鳴るように叫んでしまった。

池ちゃんも直樹も、呆気にとられた顔でしんとしている。


「おい、どうしたんだよ」


池ちゃんが僕の肩に手をかけて少し遠慮がちに話しかける。


「勇治、夢でも見たんじゃねぇ?」


「だいたい、昨日俺掃除なんかしてないし」


「そんなはず・・・」


そう言いかけた時、黒板の隅に書かれた日にちが僕の目に飛び込んできた。


4月9日(水)


え?


今日は16日だろ?だってもう始業式から1週間が過ぎてるじゃんか。


あの日付、一週間前のになって・・・。


「だって昨日俺たち学校バックれてゲーセンにいたじゃん。雨なんか降ってねぇよ」


「昨日・・・?」


「そうだよ。昨日俺がおまえら呼び出して」


直樹がそう言ったとき、教室に入ってきた鷹野が僕たちに向かって言った。


「姫島君たち、横沢が職員室こいって言ってる」


「まぁたかよ!」


池ちゃんが面倒くさそうに舌打ちをしながらうなだれた。

僕は教室中を何度も見渡してみんなの様子を確かめる。


そうだ、携帯の日にち・・・!


僕は制服のズボンから急いで携帯を取り出してみる。

まさか・・・


4月9日(水)


そんな、そんなはずない。


9日なんて、一週間前に過ぎたはずだ。


おかしい、なんだよ、コレ・・・。


「仕方ない、勇治も行こうぜ。とっとと行って、帰ってきた方が楽チンだろ」


「そうだな」


どうなってんだよ・・・。


「やだ。俺行かない」


なんでまたあいつに怒られなきゃいけないんだよ。

 


 僕は一人で教室を出て廊下を急いだ。

おかしい。

どうかしてる。

何で一週間前のことが今もう一度起きてるんだ?


「おい、どこ行くんだよ」


直樹が走ってきて僕の肩をつかんだ。僕は振り向いて直樹に問いかける。


「直樹は分かってないの?今日16日だろ?この前もう横沢んとこ行ったじゃないか」


「なんだよ、今日が何日かなんて考えんなよ」


直樹は笑いながら言った。


「別に毎日同じような一日じゃん。今日が16日だろうと、9日だろうと、やること一緒だろ」


「そうだそうだ。さ、行こうぜ」


池ちゃんが笑いながら僕の背中を押す。僕はそれを振りきって叫んだ。


「違う、はなせ!」


僕がそう言って振り切ると、直樹がつまらなそうな目で僕に言った。


「なんで分かるんだよ」


その冷めた瞳は僕を振るい上がらせるのに十分だった。

僕は直樹の目を見ながら息をのむ。


「勇治、おまえいっつも分かんないって言ってんだろ。なのに、なんでおまえに違うって分かるんだよ」


僕は池ちゃんをみた。


池ちゃん、助け・・・


「勇治になんか、分かるわけねぇだろ。例え、今日が一週間前に戻ってたとしても、おまえに分かるかよ」


「分かるよ!今日は昨日と同じじゃないじゃないか!」


「じゃあ証拠見せろよ。今日が昨日と違ってて、昨日の繰り返しではないってこと、おまえ証明できんのかよ」


「そんな・・・そんなの分かんないよ」


池ちゃんが僕に手を伸ばしてくる。

その手は僕の首元に伸び、ゆっくり掴んだ手を上に上げていく。


池ちゃんじゃない。


この顔は、全然池ちゃんじゃない。


僕は必死になってもがいた。

そして、思いっきり、ありったけの声で叫んだ。


「やめろ!」



 ベッドから落ちかけていた布団が、どさっと下に落ちる音がした。

急に軽くなってしまった感触がして、僕は目を覚ます。

目覚まし時計の時間をみると、まだ5時30分だった。

なんだか、すごく気分の悪い夢を見ていた気がする。

毎日、ただ同じことが繰り返されていくだけの日々。

だけど僕しか気にしていない夢。

僕しか気づいていない夢。

もう少しで窒息しそうになった。

あのまま締め上げられていたら、僕はきっと窒息死していただろう。


 朝食を食べるために、下に降りた。

キッチンにすでに母親が立って仕事をしている。

僕は黙ってリビングの椅子に座った。


「あら、今日は早いじゃない。どうしたの?」


「別に」


母親は珍しそうに僕を見つめる。

僕はその視線を避けるように、テーブルに置いてあるティーポットに目線を置いた。


「パンにいつものジャムでいい?」


僕は黙っていつも食べているストロベリージャムの瓶をしまい、椅子に戻る。


「何、なにつけるの」


キッチンからこっちに向かって、彼女は少し体を向ける。


「なんもつけない」


「それじゃあ、おいしくないじゃないの」


「別にいいだろ」


僕が投げやりにそう言うと、母親は肩をすくめて元の体勢に戻った。

僕は何もつけないで、ただ焼いただけのパンにかじりつく。


 あのジャム、やっぱり甘すぎるんだ。

甘すぎて、窒息しそうだよ。

どうしてみんなは平気な顔で食べていられるんだろう。

僕には、甘すぎて甘すぎて、もう食べられないよ。


 僕はいつものようにマウンテンバイクで学校へ向かう。

外の天気は、昨日とは打って変わって快晴だ。

その途中、もう池ちゃんが家の外に出て待っているのが見えた。

僕は少しだけ速度を速める。


「よう。今日はいい天気になりそうだな」


池ちゃんはうれしそうに言った。僕は何も言わずに自転車を止める。


「昨日の雨はマジでさんざんだったよなぁ?」


「うん」


よかった。

今度はちゃんとしてる。

ちゃんと僕たちの日付は16日になってる。

そりゃそうだよな。

あれは、ただの夢だったんだ。

現実にあんなことある訳ないんだ。


 僕は池ちゃんを後ろに乗せると、学校へ向かって一気に走り出した。

学校の前の横断ほどは他の通学中の生徒で満員状態になっていた。

僕は横断歩道の隣にある車道を抜け、正門に自転車を止める。

学校の門のところでは、鷹野と他のクラスの学級委員たちが、昨日の雨で散ってしまった桜の花を掃除しているのが見えた。

そこに、直樹の姿は見えない。


「直樹やっぱり来ないよな、こんなの」


池ちゃんが歩きながら少し笑って言う。


「うん。行かないって言ってたよ」


僕も笑った。きっとまた今日も、鷹野にうるさく言われるんだろう。


「直樹も、よく分かんないことしてるよなぁ」


「うん」


「学級委員だったら、やることって一応わかるじゃん。仕事とか。なのに、絶対仕事マジメにやんないのに、なんでこんなのやんだろうな」


「きっと」


僕はちょっとだけ言いかけて、やっぱりやめる。


「何?」
「や、なんでもない」


「なんだよ」


池ちゃんはじれったそうに僕をみて、だけどそのまま歩いていく。


「まぁ、あいつもなんか考えてんだろうけどさ」


「うん。そうだと思う」


きっと、たぶん直樹も、どうにかして、この世界から抜け出してやろうってもがいてるのかもしれないよ。


僕たち、みんな退屈してるから。


飽き飽きしてるから。


どこか、遠くの知らない世界まで、本当は行ってみたいんだ。


 そう言おうとしたけど、こんな、青春ドラマの1シーンじゃあるまいし、恥ずかしいから、言わなかった。

だけど、こんな風に思うのって、きっと僕だけじゃなくて、直樹だって、池ちゃんだって、みんなだって思ってるんだと思うんだ。

僕が甘すぎるストロベリージャムに飽きて、何にもつけたくないって思うように。

何かがありすぎて、溢れすぎて、巻き込まれていくのが苦しいなら、本当は何もいらないんだ。

僕たち、恵まれすぎた時代に生まれて、何も不足を知らない環境に育って、次に必要になるものは何だろう。

僕は、何もない、真っ白な道に立ってみたい。

もう、誰かの足跡が付いた道を、何も考えずにただ、たどって行くのは、嫌なんだ。

僕が歩いて、振り返れば、僕の足跡しか残っていないような、風が吹いたら、その足跡すら消えてしまって、僕が歩いてきたのは幻だったのかもしれないと思ってしまうような、そんな処に行ってみたい。

そこで、僕は自分の進んでいく道を見つけたいんだ。

一面真っ白で、何一つ誰かの痕跡のない広い場所で、僕だけの道があるんだって、証明したい。

きっとその道だけは、この不安定で嘘っぱちばかりの現実で、いろんなものが溢れているのに何一つ頼りにできないこの世界で、確かな手応えのある場所になる。

信じられる場所になる。

僕はそれを信じているんだ。


 僕が大人になったとき、どんな人間になっているんだろう。

多分、今こんなに信じられないと思っている現実に混ざり込んで、僕も信じられない現実の一部になる。

昔、誰かが駅の壁にスプレーで落書きしたペインティングを読んだとき、僕はぼーっとそれを見つめて、そして小さく声に出して読んだ。



夜ごと思いを巡らせて


星に願いをかけるのは


今も昔も変わらないのに


何が変わっちゃったんだろうね



たとえば冬の夜空に、オリオン座を見つけて


喜んでいたのは13歳の冬



学校の帰りに見つけた、小さな白い花の名を


図鑑で調べたのは14歳の春



教室の窓から見えた青い空に、一筋の飛行機雲が見えるのを


いつもまでも眺めていた15歳の夏



諦める方が楽だと思ったのは、16歳の秋



大人になるって言うのは


自分を一つずつ消していくことかもしれないね


自分を汚していくことかもしれないね



どうして今


オリオン座を見つけられないんだろう


花の名を思い出せないんだろう


飛行機雲があることに気がつけないんだろう



大人になるって言うのは


自分の中にたくさんのガラクタを詰め込んで


本当に見たいものが見えなくなっていくことかもしれないね



僕は、きっとその通りだと思った。

誰かが悪戯で書いたその壁の文字は、僕の心にすーっと入り込んで、僕になった。

僕の乾いた灰色の心に、すんなりと染みこんだその落書きは、きっと間違ってない。

正しいかどうかなんて分からないけど、間違っていないことは分かるんだ。


 僕が嘘になってしまう前に。

みんなが、嘘だらけの世界に真実を求めなくなってしまう前に。


 僕と池ちゃんと直樹は、中学1年の時から、仲がよかった。

僕たちはいつでも一緒に学校をサボって遊んだり、一緒に笑ったり、怒ったりしながら過ごしてきた。

だけど、僕たちは同じではない。

きっと僕も池ちゃんも直樹も、3人違ったことを考えて、3人違った方法で、それぞれ道を見つけていくのかもしれない。

僕だけの道は、僕しか見つけられないんだ。


「池ちゃん?」


「ん?」


「俺、もう分かんないって言わないから」


「なんだよ、急に」


下駄箱で靴を脱ぎながら、池ちゃんは不思議そうに言った。


「もう、分からないって言わないんだ」


僕がもう一度そう言うと、池ちゃんはあきれた顔で首を傾げる。


「急に、変なやつだな」


「あ、直樹」


僕たちが教室に向かおうとすると、直樹が下駄箱に入ってくる。


「やっぱ今日サボったんだ」


「ああ。今鷹野にさんざん言われたよ」


直樹は珍しく少しため息をついて肩を落としているように見える。


「明日は、来ようかなぁ」


「おい、鷹野に怒られたくらいで気落ちすんなって。でもまぁ、まがりなりにも、学級委員だしな」


池ちゃんが笑って言った。

そして、直樹の肩に腕をかける。


「さ、勇治も早く教室行こうぜ。一時間目、体育だぞ」


「うん」


僕たちは三人並んで廊下を歩いた。

教室まで、僕たちは一緒に歩く。

でも、教室についたら、バラバラに進んでいくはずだ。それぞれの場所へ。

決して同じ処にはない、自分の場所へ―。


 もう、分からないって言わない。

俺が分からなかったら、誰にも分からないんだ。

でも、どうしても分からないときは、少しだけ、教えてくれよ。

二人とも。


V


 カーテンから差し込む朝の光が僕の瞼に突き刺さる。

僕は半分落ちかけている掛け布団をもう一度上まで引き上げると、頭からかぶって日差しを完全に防御した。

目覚まし時計はまだ鳴っていない。

しばらく、そのまま眠っていた。


「ほら、勇治起きろ」


急に蹴飛ばされて、僕はびっくりして目を開けた。

姉が歯ブラシを持ちながら僕を見下ろしている。


「痛てぇな。だから何で姉ちゃんが俺の部屋に入ってくんだよ」


「お母さん忙しいの。てゆーかあたしだって忙しいんだから。いい加減に起きろ」


「うるさいな。今起きるし」


僕の言葉も大して聞かず、姉はすぐに部屋を出ていってしまった。

毎朝、何かしら姉と言い争いをして起きている気がする。

自分だって1回起こされたくらいじゃ起きれないくせに、僕を馬鹿にした態度は本当に腹が立つ。


 僕が下に行くと、いつもより早く姉が出かけようとしていた。


「あれ、今日早いじゃん」


「今日朝ちょっと予定があんの」


「なんだ、補習か」


「うるさいな」


僕は笑いながらリビングに歩いていった。

テーブルの上には、いつものようにあのストロベリージャムとパンが置かれている。


「勇治は何もつけないのよね?」


母親がパンにジャムを塗りながら訪ねる。

僕は席に着くと少し考えて、久しぶりにジャムを取った


「ジャムでいいの?」


「うん」


僕はいつもと同じようにジャムを塗る。そして、いつもと同じようにパンにかじりついた。


「やっぱ、甘すぎ。コレ」


「そうかしら」


僕はジャムを味わいながら、黙って首を一つ縦に振った。


「じゃあ他のにすればいいじゃないの。バター出してあげようか?」


「や、いいよ」


 でも、僕は見つけた。

このジャムは、確かに本物の苺から出来ている。

だって、よく味わってみれば、どろどろのジャムの中に、苺の種の粒がちゃんと入っているのが分かる。

これは、ちゃんとした苺の証拠。本物の証拠だ。


「今日お姉ちゃんいないんだから、ちゃんと時計見て遅れないようにしなさいよ」


「分かってるよ」


 毎日変わらない僕の生活に、ほんのちょっとでも何かとびきりなことが起こるかもしれないって、期待させてくれるのは、誰だろう?

それは、いつも一緒にいる、池ちゃんかもしれないし、直樹かもしれない。

もしかしたら、いつも僕らを目の敵にして怒っている鷹野かもしれないし、横沢かもしれない。

それは誰にも分からないけど、誰にも分からないから期待するのかもしれない。
 今日はもう、4月最後の日になった。

明日から5月になる。

気温も今日は相当上がるらしく、夏日になると天気予報で言っていた。

 僕は今年中学三年生になった。

そして、早くも1ヶ月が過ぎてしまった。

全然今までと変わらない毎日が続いている。

「おはよー」

「今日暑くなるって」

「知ってる。まだ4月なのに、参っちゃうよ」

たわいのない話で僕の一日は始まり、何気ない話で僕は笑い、そしてまた、たわいのない話で一日を終える。

つまらないって言えば、つまらないかもしれない。

だけど、僕らの生きる、ただ甘いだけのジャムだって、そうそう捨てたものじゃない。

だってその中に、小さな小さな苺の種、たくさん入ってるって思うから。

その一つ一つが、僕を怒らせたり、笑わせたり、悲しくさせたり、大忙しなんだ。

そんな風に、僕の気持ちを動かしてくれる瞬間は、本物の瞬間。

どんなに甘すぎて味覚が麻痺しても、粒があるのには気がつけるから。

それを楽しみに、僕は今日もジャムの中で溺れてる。

 学校の帰り、僕は公園によってみた。

そこにはいつも、雨の降った日に現れた、夢見がちな女の子が遊んでいる。

「あ、雨の時のお兄ちゃんだ!」

その子はいつも、公園にいるみんなと仲良く遊んでいる。

いつも自分の見た、楽しい夢を、本当に楽しそうに話しながら、周りの子を喜ばせていた。

「お兄ちゃん、この前実加ね、お兄ちゃんの夢見たよ」

女の子は嬉しそうに僕の現れた夢を話してくれた。僕は笑って聞いてあげた。

「お兄ちゃんがね、いっぱい夢見てる夢。なんかすごく楽しそうだったよ。夢でお兄ちゃん、どんな夢見てたのかな。実加も一緒に見たかったな」

僕はその子の頭を少し撫でると、笑って言った。

「すごく幸せな夢を見てたんだ」

真っ白い、どこまでも続く砂漠のような処で、僕は一人で歩いていた。

たった一人きりだったけど、全然寂しくなかった。

僕はそこで、風と友達になった。

風は僕の周りに吹いてきては、僕の残してきた足跡を、また真っ白な砂漠に戻していく。

僕が振り返っても、そこには、何も残っていない。

全て幻のように思えた。

僕が歩いてきたことも、僕がここにいることも。

でも、確かに僕は、向こうから歩いてきたんだって分かったんだ。

確かに、僕の目指していく方向が、正しい方向だって分かったんだ。

それは、なぜかって言うと、砂漠の向こうには綺麗な街が見えたから。

あれは、僕の目指している街に間違いないと分かった。

そこに行けば、僕は幸せになれるって知ってたんだ。

だから、迷わず進んでいった。

そしたら、風が僕の背中をそっと後押ししてくれた。

僕は嬉しくなって、振り向いた。

そしたら、笑ってたんだ。


みんな。


優しい笑顔で。


だから、僕も笑って感謝した。


そんな夢。



 4月30日


 過ぎていく毎日が早すぎて、胸が苦しいけど


 見上げた空は、いつでもゆっくり流れ


 言いたい言葉が見つからなくて、もどかしいけど


 僕のなかには、確かな思いがある


 僕の明日の朝は、きっとまたいつものように、あのストロベリージャムで始まる


 どろどろして、甘すぎて、窒息しそうな、その本物のジャムは


 僕の生きている、窒息しそうな現実のなかで


 ちょっとだけ、とびきりなことが起こるかも知れないって


 今日も期待させてくれるんだ


 ここにだって


 きっとあるはずなんだ


 あの甘すぎるジャムの中にあった、本物の苺の種みたいに


 微かでも確実な本当の瞬間が



 ストロベリージャム、万歳!