everlasting ruffle
T
8月12日。
私は予備校の夏期講習へ行くため駅前を歩いていた。
今日の気温は32.5℃にもなる真夏日で、容赦なく照りつける太陽とじっとりした暑い空気は私をくったりさせていた。
8月に入ってもう毎日予備校に通い続けているけど、さすがにこう毎日暑い中では勉強もやる気が起きない。
私はまだ授業まで時間があるのを確認して、涼みがてら駅前にあるレンタルビデオショップに入った。
何気なくヨーロッパ映画の棚を見ていると、ふと店員の女の子の姿が目に入ってくる。
年は18くらいで金髪の傷んだセミロングの髪。
そして目の上にはディープブルーのシャドーが塗られ、唇はグレープフルーツ色に縁取られている。
白いボルコムのTシャツに古着のジーンズというスタイルでサーフィンか何かの雑誌を読んでいる彼女の姿は場違いなサーファーに見えた。
この辺は湘南も近いし、サーフボードを持った人たちもよく見かける。
レンタルショップでバイトするより、サーフショップでバイトする方が似合ってるのに。
私はちらっと携帯に目をやると店を出て予備校に向かった。
予備校では小論文と英語の授業をとっている。
第一志望の慶応大に受かるには、苦手な英語をあと15点は上げないと永遠に”圏外”だ。
現役で入りたいので今のところ受験勉強を投げ出すわけにはいかない。
でも、やる気は全くなかった。
予備校の1階にあるラウンジに、日焼けした肌を誇らしげに見せつけ、空っぽの目で大笑いをしている女の子達がいた。
私はそれを横目で見ながらすぐにエレベーターに乗り込み、5階のボタンを押した。
その瞬間とてもお腹がすいていることに気が付いたが、またラウンジを通ってコンビニへ行くことを考えて、私はそのままエレベーターに乗り込む。
英語の時間はお腹が鳴るのが気になって集中できなかった。
予備校の帰り、携帯のメールチェックをすると、匡からメールがきていた。
「勉強頑張ってる?マジで今度の模試はヤバイね。このままだと。ところであさって塾の前にちょっと会わない?知香は2時からだっけ?」
匡は高1の春休みから付き合っていている同じ学校の同級生。
彼は医者志望だから理系だけれど、英語の文法を一緒にやったりして会う時間を作っている。
匡にメールを返し、ふと行きに立ち寄ったレンタルビデオショップの前にさしかかったとき、前に劇場公開された時観られなかった映画のことを思い出して中に入る。
私がそのビデオを見つけ、カウンターへ持っていくと、昼間いたあの女の子の店員がいた。
相変わらずサーフ系の雑誌を読んでいる。
彼女は私に気が付くと雑誌から目を離し、私の差し出したビデオテープを黙って受け取る。
「期間の方は一週間でよろしいですか?」
「あ、はい」
それだけ言うと料金が表示され、私はお金を払う。
そしてビデオを受け取り出口へ向かった。
ありがとうございました、と彼女の声が聞こえてくる。
私は自動ドアが開く瞬間にちらっとカウンターを見たが、店員の女の子はもうすでに雑誌を読んでいた。
そしてそのなぜか少し寂しげな彼女の姿はとても印象深いものだった。
次の日も私は予備校へ行くため駅前へ出る。
今日もうんざりするほどの暑さ。
私はイライラしながら予備校へ急ぐ。
昨日のレンタルビデオショップの前まで来ると、私は無意識に店内を眺めた。
カウンターには眼鏡をかけた男の人が座っていて、昨日の女の子は見当たらなかった。
私は特に気にとめずそのまま歩き出す。
すると前の方から、ビーサンを引きずりながら、煙草を吸って歩いてくる女の子が見える。
金髪のセミロングにディープブルーのシャドー。
すぐに店員の女の子であることに気が付いた。
彼女は今日も古着のジーンズにタンクトップを着ている。
視線を自分のビーサンよりも少しだけ前に落として、小柄な体で歩いてくるその姿は、周りの女子高生とは違い、一歩一歩ゆっくりと歩いているように見えた。
そしてすれ違う瞬間、彼女は不意に視線を上げ、私と目が合った。
私は思わず目をそらしてしまう。
ずっと私が彼女のことを見ていたと思われたんじゃないか、と少し気恥ずかしくなった。
彼女はそのままビデオショップへ入っていく。
私は前屈みで足早に歩いていた足を止め、小さく息を吸ってゆっくりと歩いてみる。
すると、さっきまでせかせかと歩いていた自分の姿がどんどん前へ歩いていくのが見えた気がした。
携帯の時間を見る。
授業にはまだ時間があった。
今日はゆっくりと歩いて行こう。
その方が疲れないし、そよぐ風も違って感じる。
そんな気がした。
U
私は駅前の喫茶店で匡を待ちながら、メロンソーダを飲んでいた。
今日は匡と会う約束をした日。
すると、私の携帯からメール受信を知らせる着メロがなった。
「ごめん、遅れる!駅に着いたらまた連絡する」
私は少しため息をつき、残りのメロンソーダを一気に飲み干すと、喫茶店を出て駅ビルの方へ歩く。
そしてロータリーの真ん中にある噴水の前で、私はおととい借りたビデオを返そうと思っていたことを思い出し、ビデオショップへ向かった。
新作CDランキングのところで眼鏡男の店員がCDを並べていた。
カウンターにはあの女の子がいる。
私はビデオを返すためにカウンターの彼女に話しかけた。
「あの、返却したいんですけど」
彼女は私の声で読んでいた雑誌から目を離し、はい、と言って私の差し出した袋の中からビデオを取りだした。
彼女がビデオを確認している間、彼女の読んでいた雑誌を覗いてみると、やっぱりサーフィンの雑誌だった。
匡が去年までサーフィンをしていたので、私もついていったりして少しは興味があった。
「サーフィンするんですか?」
私は思いきって聞いてみる。
彼女はちょっと驚いた表情で私を見た。
「あ、この前もサーフィンの雑誌読んでるトコ見かけたから。いきなりごめんなさい」
私は少しだけ自分の行動に後悔した。
いきなり話しかけられて、彼女はきっと不審に思ったに違いない。
しかし、彼女の反応は予想と反してフレンドリーだった。
「まぁね。昔から私はこれしか興味ないから。でも、サーフィン以外は何にも知らないけどね、バカだから」
そう言って彼女は笑顔を見せた。
私は彼女が話してくれたことがとても嬉しくなった。
「でも、いいですね、そういう趣味で特技みたいなものがあるって。私こそ何もできないし」
「今年、受験生なの?」
「え?」
「あれ、違ったらごめんね」
「ううん、あたりです。どうして分かったの?」
そう聞き返してすぐに、自分の持っているクリアケースに気が付く。
半透明の入れ物からは、高3早慶英語、と書かれたテキストが丸見えだった。
「あ、これか…」という私に彼女は笑顔で言った。
「頑張ってね」
「うん、ありがとう」
そう言って私は彼女に笑顔を向け、カウンターを離れ店を出る。
ありがとうございました、と眼鏡男の声が聞こえた。
私が少し振り返ってみると、彼女はまた少し笑って手を振ってくれた。
その日の予備校の授業は、なんだか気持ちが浮ついて集中できなかった。
次の日、私は匡とマックでお昼を食べながら一緒に勉強をしていた。
結局昨日は匡が寝坊をしたせいで会うことが出来なかったので、今日は匡のおごり。
私はポテトを口に運びながら英語の予習をしていた。
夏前の全統模試慶応の合格判定がCからDへ下がってしまっていた。
次はなんとしても合格圏内へ入らなくてはならない。
高3の夏の模試は重要だってチューターの中村が言ってたっけ。
でも、こんな調子で本当に受かるのだろうか。
数Vの問題集を黙々と解いている匡の手を見つめながら、ぼんやりと来年の2月頃の自分を想像してみた。
きっとせっぱ詰まっているに違いない。
それとも、余裕で入試に臨んでいるだろうか。
でも、そんな想像は無意味だった。
今、英単語を一つでも多く覚える方がはるかに役に立つだろう。
今の努力次第なのだ。
チューターの中村の顔を思い浮かべると、やる気が失せていくのを感じた。
「あぁ、間違えてる」
そう言う匡の声で現実に引き戻された。
私は消しゴムを使いながら頭をかいている匡に話しかけた。
「ねぇ、匡はさ、医者目指してるじゃん。やっぱ今年受からなければ浪人するんでしょ?」
「そりゃそうだよ。医学部行かないで医者は無理だろ」
知香は?と聞かれ、私は答えに詰まった。
別にどうしても大学に行きたいわけではなかった。
けれど、大学に行かないと言う選択肢は選ぶことが出来なかった。
したいこともなにも無い私は、先が見えなかった。
「私も受からなかったら浪人する。高卒じゃ就職厳しそうだし」
匡には医者になるという目標があるけれど、私は何もない。
急に自分の将来が不安で飲み込まれそうになる。
将来にやりたいこともまるで見つからないなんて、この先真っ暗だ。
そんなことを考えていると、あの店員の女の子のことが頭に浮かんだ。
彼女は本当にサーフィンが好きそうだった。
きっと、サーフィンさえできれば、彼女にとって他に考えなくてはいけないことはないのだろう。
私にはそんな風に思えるものが何もない。
とりあえず、大学に行くということを目標にしていれば、そんなこと考えなくても済む気がした。
私はちょっと匡を見つめ、英語の長文の続きを解いた。
8月最後の日曜日。
今日の模試は前よりも手応えがあった。
もしかしたら判定があがっているかもしれない。
私は模試の帰り道、立ち寄った雑貨屋でイーグルのお守りを買った。
前から買おうか迷っていたけれど、今日の模試が思ったより出来たので、自分へのご褒美にした。
買ったばかりのお守りを袋から出し、満足げに眺める。
すると、ロータリーの噴水の所に座っている人影が視界の隅に入ってきた。
私はイーグルから視線をずらし、その人を見る。
あの女の子だった。
バイトの休憩中か、ビデオショップの制服を着ていた。
私は思いきって近づき、声をかけた。
「いつもバイトしてるんですね。海には行ってるの?」
「え、あぁこの前の」
彼女は一瞬怪訝な表情を浮かべたが、すぐに答えてくれた。
「最近はあまりいけていないの。バイトが忙しくて」
「聞いてもいいかな?大学生ですか?」
「ううん、フリーターってか、プーだけどね。高校行ってれば今高3だよ」
「あそうなんだ、じゃあタメだ」
彼女の落ち着いたしゃべり方は私より年上に感じる。
この子はどうしてしっかりしているようにみえるんだろう。
彼女の金色の髪が光を通すと、琥珀色に透けて見える。
「私さ、今年受験なんだけど、ノイローゼになりそうだよ」
なんとなく自分の事を話したくなった。
全くお互いを知らない者同士だから、逆に簡単に話せる気がした。
「そんなに大変なんだ。あたしは高校にも行ってないからよく分からないけどね。最初の2ヶ月で辞めちゃった」
「そうなの?どうして?」
「うーん、何でかって簡単に言えば、自分には合わなかったってとこかな」
彼女は高校に入ってすぐ、教師に目をつけられ、その後すんなり自主退学したと言った。
彼女はとても気の抜けた、自然な笑顔で話をしてくれた。
私は彼女がとても羨ましくなる。
私は別に高校を辞めたいわけではないけれど、そんな風に笑える彼女がとても自然であったから。
私にはその勇気も、行動力もない。
「どうしてビデオ屋でバイトしてるの?サーフショップのが似合うよ」
「あはは。何でだろうね、確かにあの場所では浮いてるかも」
彼女は少しハスキーな声で笑った。
「そうだ、名前は何て言うの?私は知香って言うんだけど」
「千里。自分の名前はあまり好きじゃないんだ」
そう言う彼女に私は「可愛い名前じゃん」と言って笑った。
それが私と千里との始まりだった。
私はそれから千里がいなくなるまで、いつも彼女の世界に惹かれ、共にしていた。
V
2学期が始まって一週間。
私は日本史のテストのために勉強しなくてはならなかった。
夏休み中にやっておけばよかったのだが、すっかり忘れていたのだ。
学校のテストなんて塾に比べたらレベルは下がるけれど、チェックが厳しいので捨てられない。
私は行きの電車の中で用語集を見ていた。
しかし、隣に立っている大学生っぽい男の人のウォークマンからレゲエの音楽が漏れていてちっとも集中できない。
仕方なく用語集をカバンにしまい、無意識にその音楽に聴き入っていた。
すると、私の携帯が鳴り、車内に音が響き渡る。
私は迷惑そうにこっちを睨んでいるおばさんを横目に、あわてて携帯を取りだした。
意外にもそれは千里からだった。
私は周りを気にしながらこっそりと通話ボタンを押した。
「どうしたの?こんな朝早くから」
「ごめん、ちょっと聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」
「うん、高校のことなんだけど、知香ちゃんって聖陵高校だったよね?」
「そうだけど、どうかしたの?」
「うん、弟が転校することになって」
「弟いるんだ、知らなかったな、何年?」
「一年。それでね、転校の手続きをしないといけないんだけど、場所がよく分からないんだよね」
「手続きって、千里がするの?」
「うん。うち両親が離婚していないから」
「じゃあ、今日の放課後でよければ、案内するよ」
私は放課後に千里と待ち合わせすることを決め、電話を切る。
両親が離婚していたって、そんなこと親のする事じゃないのだろうか?
千里は確かにしっかりしているけれど、なんだか私なんかが入り込めない、大きな事情があるような気がした。
電車の揺れと、隣から漏れるレゲエの音に包まれながら、私は学校までの間を過ごした。
放課後、千里との待ち合わせ場所の噴水の前に座っていると、足下に落ちている煙草の吸い殻が目に入る。
それをじっと見つめていると、急に自分と周りとの距離が広がっていくのを感じた。
自分はそこにある全てのものから切り離されて浮遊している。
そして周りで起きている全ての事が近くに感じ、大音量で耳に入ってくるが、それは私の意識を通り越して、私には全く影響しない。
誰かが私のつま先に突っかかって行った。
でも、それすら自分自身に起きたことだという意識はなくなっていた。
すると、風が吹き、私の髪をそっと揺らした。
そこで私ははっと我に返る。
たまにこうして自分が周りとは全く別世界にいるような感覚に襲われることがあった。
「ごめんね、待った?」
急に横から話しかけられた。
千里は珍しく薄いリメイクデニムの膝丈スカートをはいている。
いつもパンツのイメージがあったため、千里が近づいてきたことに気が付かなかった。
「今日はスカートはいてるんだね、なんかいつもと雰囲気違う」
「あはは。そうかもね。あたしって本当スカートはかないから」
私は千里に学校の詳しい場所を説明し、たわいもない話をした。
いつものように受験の愚痴を話していると、千里はある場所に連れて行ってくれると言い出した。
そこは海の近くにある小高い丘だった。
その丘は小さいけれど、湘南の海が一望できた。
私はあまりに広い海の壮大さに気を取られる。
下の砂浜から見る海とは全く違った眺めで、初めて見る海のようだった。
夕焼けがちょうど海に沈む頃で、海と空の切れ目は曖昧になり、全ては濃いオレンジ色に染められていた。
「すごい、こんなとこあるなんて知らなかった」
「ここは私のお気に入りの場所なんだ。サーフィン一日中やって、それでもまだ海にいたくて、仲間とここに来てビール飲んだり。最高に楽しいよ」
私には千里が小さな体で大きなボードを担ぎ、みんなで此処にいる姿が容易に想像できた。
「でも、最近あまり行ってないんでしょ?つまんなくない?」
「うん、でもね、もう止めようかと思ってるから」
「え、なんで?」
千里は丘の前の方に立ち、海を見ながら言った。
「蒼祐のこととかあるし。働かなきゃ。高校出るまでは私の所にいる予定だから」
蒼祐とは、千里の弟のことだった。
今までは別々に住んでいたらしいが、千里と一緒に住むことになり、転校になったらしい。
「両親からの仕送りとかはないの?」
「私も蒼祐も断った。学費は出してくれるみたいだけどね」
「そうなんだ。私にはよく分からないけれど、なんだか寂しいね」
そう言うと千里は振り向き、不思議そうな顔で言った。
「寂しい?なんで?」
「だって、みんな家族だったのに、他人になっちゃったみたい」
「そうかな。本当は他人同然なのに、家族気取っているよりはよっぽどイイよ」
それよりさ、と千里は話題を変える。
「受験勉強って大変そうだね。知香ちゃん見ててそう思う。私も一回くらい受験とか経験してみたいかも。記念にね」
千里はそう言って勉強するジェスチャーをして見せた。
「できれば、一回で終わらせたいんだけどね。浪人はやだなぁ。でも、なんかうまく勉強も進まないし、やっぱ辛いよ」
「そっか。でも、そんなに焦らないで。この海みたいにしていれば、そんなに追い込まれないでいられると思う」
「海みたいに?」
「そう。海は何の迷いもなくて、気楽だよ。それでいいじゃないかな。だってさ、私も知香ちゃんも、この広い世界からしてみれば、本当にちっぽけで幻のような存在だと思う。
その中でしか存在できないのだから、一流企業の社長も、クスリやってるジャンキーも、どっちも同じだよ。
生きる事なんて自己満足に過ぎないんだから、気楽に生きた方が楽しいよ、きっと」
私は千里の言っている意味がよく分からなかった。
生きていることは自己満足?
それに、社長とジャンキーが一緒なんて、そんなわけないと思った。
私は混乱して千里に言った。
「それだと、つまり生きている意味なんてないってことにならない?」
「そう言う風に考えるんだ、あたしは。生きていることが絶対的な真実だなんて思ったことない。
だって、私の存在なんて、なくなってしまえば誰も気にとめないようなものだよ。
こうして今、私は此処にいると思っているのは私だけで、周りから見れば、存在していないかもしれない。
生きていること自体幻かもしれないから」
「じゃあ、千里にとって信じられるものって何?」
私がそう聞くと、千里はまた海を見た。
さっきまで見えていた夕陽は完全に海の中に沈み、淡いオレンジ色の光を残して、さっきまでの存在を夕焼けの空に託した。
「死、かな。死ぬ事って、全てのものに与えられた平等な権利だと思う。
あたしはマイナスのベクトルから始まって、死ぬときに初めて0になることが出来る。やっとね」
私は驚いた。千里がそんな風に物事を見ているなんて思いもしなかった。
「でも、私の知らない世界はまだまだあるし、視野も狭い。この先どう考えが変わっていくかわからないけどね」
千里は付け加えるようにそう言うと、笑ってみせた。
私は少し安心して答える。
「そうだね」
私と千里は丘の前の方に立ち、目の前に広がる海を見た。
海は無限に広がり、その壮大さに飲み込まれそうになる。
でも、それを感じながら深呼吸をすると、その永遠に似た存在に心地よさが横たわる。
私は一人しゃがみ込み、独り言のように呟いた。
「海、いいなぁ」
「うん」
千里はそれだけ言って私と同じように座る。
私はその時、二人は同じものを見たのだと確信した。
地上100メートルから見たその幻は、きっと私たちにかすかな希望を与えてくれる。
W
9月ももうあと5日で終わり。
このごろは一日一日過ぎていくのに、なんだかもやもやした気持ちが消えない。
予備校も学校も周りはみんなぴりぴりしていた。
でも、周りがそうなっていけばいくほど、私は冷めた気持ちが増してくるのを感じていた。
大学へ行くことがそんなに魅力的なことだとは思えなくなってきていたし、この前の千里とのことですっかり気分が変わってしまっていた。
でも、だからといって受験をやめる気はなかった。
いつも通り、学校が終わると塾の自習室へ向かう。
私は自習室に入る前に、いつもの癖で携帯を開いた。
すると、マナーモードで気が付かなかったが、匡からメールが来ていた。
そういえば、もう2週間も匡とは会っていなかった。
お互いに自分のことで忙しくて、そんなに日が経っていたことに気が付かなかった。
「ミエのこと、聞いた?今日職員室に呼ばれてたろ。渋谷で万引きして捕まったらしいよ」
ミエが?
一瞬信じられなかったが、すぐに思い直す。
ミエとはよく一緒にクラブへ行ったりする仲だった。
たしかに、よく万引きしていたのは知っていたけど、捕まるような間抜けではないと思っていたのに。
私はミエに電話してみた。
「もしもし、ミエ?」
「あー知香、どうした?」
「あんた今日呼び出しくらったでしょ?どうしたの?」
「え、あぁ、あれね。渋谷の100均でさ、万引きしたのがばれただけだよ」
「ばれただけって…なんだ、別に平気だったの?」
「うん、うちの親父のこと出せばなんでもアリじゃん」
ミエの父親は学校の後援会会長をやっているし、学校運営にもかなり貢献しているらしく、学校側がミエの素行に対して黙認していることは事実だった。
この腐敗した世の中では、そんなことが日常茶飯事に行われているわけだ。
私だって、いつも安っぽい正義感と、薄汚れた醜い感情の中で揺れ動いているし、誰に責めることも出来ない。
大人達は自分たちの社会的地位だけのためにあくせくし、私たちは私たちで、自分たちの楽しいことだけのために頭を絞る。
所詮その程度のことだ。
最近、私にもベクトルの方向が見えてきたような気がする。
全てのものはマイナスの座標軸上に位置し、それらは決してプラスに転じることはない。
つまり生きる意味のあるものなんて、ほとんどないってことだ。
少なくとも私が見てきた世の中では例外なく当てはまるものだった。
千里の言っていることは正しいかもしれない。
私はミエの教師に対するくだらない愚痴を聞いて、電話を切る。
最後にミエがこう言った。
「知香が電話をかけてきてくれて嬉しかった。やっぱ仲間同士っていいよね」
私は何も言わずにじゃあね、とだけ言った。
私とミエが仲間?
冗談じゃない。
あんたこそ、私や千里の敵かもしれないのに。
私は携帯を鞄にしまうと、自習室のドアを開けた。
自習室に入ると、その静寂に包まれた雰囲気が、物音一つたててはいけないという暗黙のルールを作り出していた。
私は一番近くにあった席に着くと、日本史の問題集を開いた。
日明貿易、楽市楽座令、加賀の一向一揆、蓮如…私はどんどん問題を解いていく。
そして、解説のところを読んでいると、ちょっと興味を引く話があった。
戦争に勝ち残ることが絶対に求められる戦国大名は、富国強兵を目標に領内の支配を行う。これは富国と強兵なくしては自立できないからである。家臣団の統制を強兵の大本とし、農民統制を従とした。各戦国大名は、分国法を制定する。
なるほど。
私たちは武家社会の頃から、いやもっと大昔から自分の利益のために国までを動かしていたのだ。
国家のため、人民のためなんていうことは、ただの名目に過ぎない。
つまり、私たちは今更腐敗してきたわけではなく、そう言う風にして今まで歴史を渡り歩いてきたって事か。
私は日本史の問題集に一区切りつけると、少しため息をついて自習室内を見渡した。
周りにはまるでコンピュータのように延々とシャーペンを動かし続ける蝋人形たち。
まるで無駄のないその手つきは、それ自体が無駄なことかもしれない。
私はその場にいることに吐き気を感じ、さっさと自習室を出た。
駅前のひらけた大通りを歩いていると、いろいろな音が耳に入り込んでくる。
Taharaの前にさしかかると、浜崎の新しいアルバムの曲が流れていた。
誰もが探して 欲しがっているもの 「それ」はいつかの 未来にあると 僕も皆も 思いこんでいるよね なのにねまさか過去にあるだなんて 一体どれ程の人間気付けるだろう 予想もつかない (Duty)
次の日、学校に着くと、昨日のミエのことが噂になっていた。
当の本人はまだ来ていないようだった。
みんないつもなら勉強道具を片時も離さずに机に向かっているのに、学級委員の不祥事ともなれば、誰もが皮肉な笑顔を浮かべながら耳打ちを繰り返す。
私はいつもミエと一緒にいるサキを教室中から見つける。
彼女は一人でけだるそうに爪磨きをしていた。
私はサキの机の前に立ち、話しかける。
「ねぇ、今日はまだミエ来てないの?」
「いなければきてないんじゃない」
「友達が大変な噂立ってるのに、心配じゃないの?」
「知香、噂がどこまでいってるか知ってる?退学かもしれないだってさ」
「え?」
「今日の朝、職員会議ですっごい問題になってるらしいよ。てか、今もまだやってるみたい。なんかミエのオヤジがミエをかばってくれなかったらしいよ」
昨日はミエは平気だと笑っていたのに。
「あの子もこれで少しは懲りるといいんだけどね」
サキの表情からは心配するという態度が感じられなかった。
「サキ、心配じゃないの?友達でしょ?」
クラスの誰かが、退学が決まったと言って教室に飛び込んできた。
きっと、職員室前で聞き耳を立てて仕入れた情報だろう。
それを聞いてもサキの表情は一つも変わらなかった。
「あたし、ミエのこと、友達なんて思ってないから」
サキは綺麗に磨き上げた爪を眺めながらあっさりと言う。
「あいつ、むかつくんだよね」
そう言い放ったサキの瞳は氷のように冷たかった。
「ミエはいつでも、私のモノを取っていく。男も、客も。みんなね。そういうの、ホント無理だから。」
サキはそう言うと爪磨きの道具を荒々しく鞄に投げ込んだ。
苛立っているのが分かった。
じゃあ、なんで今まで一緒にいたの?
そう言おうとしたけれど、のどの奥にしまい込む。
私はサキの肩を軽くたたくと、その場を離れた。
窓の外には、私たちの感情とは関係なく、気持ちのよい青空が広がっている。
ミエとサキのどっちの気持ちも分かるような気がした。
私の心には二人分の痛みが残った。
もう10月も一週間が過ぎ、残暑の暑さも消え、秋の雰囲気を感じ出す。
私は夏が終わるという事に、追い込まれるような寂しさを感じていた。
昨日メールで千里がこう言った。
「いつも夏の終わりが近づくと、私の細胞まで取り去っていかれそうで、すごく怖くなるんだ」
私は予備校を休んで久しぶりに渋谷へ行ってみる。
JRの南口で19:30にミエと待ち合わせをしていた。
待ち合わせから5分過ぎた頃、ミエがやってきた。
いつものように笑いながら。
私たちは、渋谷109のカパルアでおそろいのスカートを買い、センター街の入り口でソフトクリームを買い、なんとなく歩いた。
結局ミエは退学が決まり、今はフリーターだと言う。
私はいつもと同じように、ミエの付き合っている32歳の既婚者の話を聞く。
実らない付き合いをいつまでも続けているミエを見て、少し同情に似たものが心の底に疼いた。
「あいつさ、最近連絡が取れないんだよねぇ。なんかいくら携帯にかけてもつながらないし」
「もう潮時。ミエにはあいつは似合わないよ。もっと良い相手がいる」
そう言う私に、そうかなぁ、といつもには似合わない素直な返事をした。
「そろそろ、こんなことやっててもしょうがないって気はしてるんだよね」
ミエもサキも、自分の居場所がなくて苦しがっているのが手に取るように分かった。
もちろん、私も例外じゃない。
強がっていてもそれだって疲れて、誰かに助けを求めて、傷つけあって、自分を苦しめることでしか自分自身を支えられない、人間なんてそんなものだから。
私たちがいるこの渋谷に、幸せを感じている人はどれだけいるのだろうか。
私は空を見上げた。
星なんて一つも見えないこの暗褐色のキャンバスに、私は何を描きたいんだろう。
千里が私を誘ってくれるのは初めてだった。
次の日、私は予備校の集中講義の後、21:00から千里と会うための約束をしていた。
私が待ち合わせの喫茶店に着くと、千里はすでに到着していた。
久しぶりに会う千里は、少し痩せて凛とした表情をしている。
私は席に着くとメロンソーダを注文し、久しぶり、と話を始める。
「ごめんね、少し遅れた」
「ううん、勉強忙しいのに、呼び出してごめんね、大丈夫だった?」
「平気。最近調子良いし」
ところで、どうかしたの?私はお冷やに口を付けながら聞く。
「彼氏とは、最近どう?」
「あぁ、最近あんまり会ってないんだ。向こうは医学部だし、私より大変だから、忙しいみたい」
「そっか」
千里はそう言ってコーヒーを飲んだ。
私は千里に彼氏がいるかどうか聞いてみた。
「いるよね、かわいいし。どんな人?」
千里は笑って窓の外に視線を逸らす。
「いないよ、忘れられない人ならいる」
そして千里はすこしずつ昔のことを話始めた。
私は中三のころから付き合ってる人がいたんだ。
そのころ、うちが離婚だとかなんだでもめてた時期で。
かなり荒れてたよ。
家に帰っても喧嘩ばかりで耐えられなくなって、いつの間にか家には帰らなくなった。
友達や先輩の家を泊まり歩く毎日。
そんなとき、先輩に連れて行ってもらったパーティの二次会かなんかで、1つ上のあいつに出会ったんだ。
私たちはすぐに意気投合したよ。
だって、私とあいつには共通点があったから。
親からの愛情を知らずに、周りに対して警戒心を抱いているとこ。
すぐに分かったよ、私たちが似たもの同士だって事が。
それで、いつの間にかあいつと一緒に住むようになって、あいつが唯一心から楽しんでやっていたサーフィンも教えてもらうようになったの。
「よく言ってたんだ、海は人と違って裏切らないから、サーフィンが大好きだって」
そして、いつの間にか私もサーフィンが大好きになってた。
すごく自然に。
波は正直で、何度も危ない目に遭ったけど、それでもこんな私を受け入れてくれる海は陸にいるより何倍も居心地が良いんだよね。
初めて、認めてもらえたような気がした。
こんな毎日が永遠に続くんだと思ってた。
あいつと二人で大好きなサーフィンをして。
でも、永遠なんてあるわけなかったんだ。
終わりは突然やってきたよ。
「別れちゃったの?」
私は千里の話に引き込まれるようにして聴き入っていた。
私の問いに、千里は首を振った。
「死んじゃったの」
二人でいつも一緒にいれば、もちろん喧嘩もした。
あの日はものすごく天気が悪くて、台風が近づいている日だった。
私たちは些細なことから喧嘩をして、ものすごい言い合いになったんだ。
そんでむしゃくしゃしたあいつは、友達と大荒れの海に入りに行った。
私は「波に飲まれちゃえ」って言った。
そしたら、本当にそうなってしまった。
友達がやっぱり今日はヤバイからやめようと言ったらしいんだけど、あいつは全く聞く耳持たず、一人で海に入っていったんだって。
「最初は、信じられなかった。涙なんて出なかった。だって、さっきまで一緒にいたのに。あいつの大好きなサーフィンで命を落とすなんて」
千里は少し声を詰まらせた。
「私はあいつにあって、やっと自分の居場所が見つかったと思ってたの。それなのに…。家族の温かみを知らずに育った私たちには、二人でいることが必要だった。なによりも大切なことだった…」
私は千里の姿を見て、感情論に支配されていく自分を止められなかった。
「それは、いつ頃の話なの?」
「去年の12月27日」
12月27日。
もうすぐ一年だった。
千里はバックから一枚の写真を取りだして見せてくれた。
その写真には無邪気に笑い、今より少し幼さの残る千里と、引き締まった浅黒い肌に、肩よりも短い髪を後ろに流した男の人が写っている。
笑顔を作っているのに、なぜか笑わないその瞳は、孤独になれきった野良猫みたいだった。
私はそれが千里に最初に感じた印象と同じだと言うことに気が付いた。
「ごめんね、こんな話。やっぱ1年経つのは早いね。まぁ、自分でそう感じるようにし向けてきたせいもあるけど」
「その人、名前は何て言うの?」
「優治」
私は帰り道、目を閉じて秋の気配を感じた。
夏が去っていった寂しさが私の鼻孔を刺す。
いつの間にか、私の心には、いつか見た海の景色と、写真の二人の姿がシンクロしていく。
X
11月。
今月から予備校の冬期直前講習がが始まる。
私は予定通り第一志望を慶応大文学部に設定し、講習は英語、小論文、日本史の三教科を取る。
日本史はまぁまぁ自信があったが、英語はいまいち。
特に最近サボっていたので、遅れを取り戻さなければならない。
私は予備校の自習室で慶応の赤本に向かい、周りに目もくれず解き続けた。
英語の長文が一段落した所で、気分を変えるために小論文の練習に入る。
他に考えることはなかった。
いつもよりも数段身の入った勉強を続けた。
冬期直前講習1日目。
英語は偶然匡と同じクラスだった。
私は久しぶりに会う匡に声をかけた。
「久しぶり。マジ受験まであと一歩だね。どう?調子は?」
「まぁまぁだよ、知香は?」
匡は笑顔で答えてくれた。
「うん、なんとかいけそうかな。浪人はごめんだから」
久しぶりに匡と離して、なんだか少し安心する。
匡といると、なぜか自分の周りで起きている様々なことが全て遠い世界のことに感じた。
私は席に着くと英語のテキストに書いてある最初の注意書きを眺める。
すると携帯のコール音が教室中に響き渡った。
マナーモードにするのを忘れていた。
私は教室を出てエレベーターの前まで行くとたった今携帯に入った留守電を再生した。
「知香…あたしもうだめだ。分かってたんだけど、あいつが私に本気じゃないってことくらい…」
そこにはいつもと違い、弱気な泣き声のミエがいた。
私は一瞬迷ったが、とりあえず授業が終わったら電話するというメールを送り、教室に戻る。
私がミエに電話をしたのは最初にミエから電話があった時よりも1時間半もあとだったが、ミエはまだ泣いていた。
私の次の授業は5限目なので、まだ時間がある。
私はミエと会う約束をし、予備校を出た。
匡が教室を出るときにカロリーメイトをくれた。
私はそれをひとつ口に放り込み、ミエの顔を思い浮かべる。
あんなに泣くほどあいつに入れ込んでたなんて。
私はミエに何を言ってあげたらいいんだろう。
待ち合わせ場所に現れたミエは思ったよりしっかりしていた。
「ごめんね、塾にいたんでしょ?」
そう言って笑った。
「もうさ、分かってたんだよね、避けられてたし」
ミエの話によれば、32歳の既婚者とは最近、ずっと連絡が取れず、やっと昨日携帯がつながったかと思ったらあっさり別れを告げられたらしい。
そして今日になってみると、携帯の番号は変えられ、一切連絡手段は途絶えてしまったのだ。
「もう連絡できない。家電とか、場所とかも知らないし、。結局私はその程度なんだよね」
ミエは下を向いて微かに笑った。
「いつもそうなんだ。あたしが本気になっても、相手は遊びって言うか。
あたしなんて誰かに必要とされることあるのかな。小さいときから誰にも本気で相手にしてもらえない」
「あんたには縁のない人だったんだよ」
私はそれだけ言うと目の前で次々と人混みの中に埋もれていく足取りを見つめた。
そこには残るものなど何もなく、どんどん次の波が押し寄せられていく。
まるで本当の姿が露呈されてしまうのを怖れているかのように。
私たちは駅前でソフトクリームを食べて別れた。
千里と最後にあったのは、私の予備校の冬期講習最終日の、12月27日だった。
私は入試のために予備校と家の往復を繰り返している。
センターまではあと1ヶ月を切った。
入試までは2ヶ月もない。
その日は今年初めての雪が降った。
昼間は自習室へ行き、匡と一緒に勉強をした。
昼食はマックで、ここでも英単語とにらめっこをし、また午後の授業への予習をする。
いつもよりも授業が少し長引き、約束の時間に遅れそうになる。
私と千里は9時半に駅前のロータリーで待ち合わせをしていた。
今、9時24分。
急がないと遅刻してしまう。
ロータリーの噴水の前に、真っ白いダッフルコートを着た千里がしゃがんでいるのが見えた。
私が駆け寄って声をかけると、千里は力無く笑い、立ち上がる。
その姿は小さな天使が舞い降りてきたかのように、繊細で華奢だった。
千里はこの前会ったときよりもさらに痩せて見えた。
私は心配になり、体調のことを聞いてみると、千里は「最近ちょっと生活が乱れてて」とだけ言った。
「千里は将来なりたいものってある?私は何もないんだよね。周りがどんどん決まっていくのに、私だけ取り残されていくような感じ」
いつもの喫茶店に入り、私は千里に聞いてみた。
千里は窓の外に舞い落ちる粉雪を眺めながら、呟くように言った。
「海になりたい」
えっ?
「私は海になりたいよ」
そう言って窓の外を眺めながら続ける。
「海みたいに自由になって、永遠に輝く星の光と融合して、いつしか私という人格が消えてなくなるまで」
千里は小さな声で、なんてね、と言ってメロンソーダを飲んだ。
メロンソーダに浮かんでいく炭酸を眺めているうちに、私は千里の言葉に吸い込まれるように落ちていった。
Y
千里へ
ねぇ、千里は私に話してくれたずっと前から、その日に永遠を見に行くって決めていたんだよね?
12月27日はすごく綺麗な粉雪が降っていて、千里と会ったとき、真っ白いダッフルコートを着ていたあなたを見て、まるで地上に迷い込んでしまった天使みたいだと思ったんだよ。
喫茶店で千里の話を聞いていて、すごく千里らしいなと思ったんだ。
海になりたいなんて、私の周りにはそんなロマンチックな言葉を見つけられる人、いないから。
いつでも千里が表現する言葉には絶対に周りの大人には分からない暖かさがあった。
だから初めて会ったときから、あんなに惹かれたのかもしれない。
千里の少し寂しそうで、でも笑うと暖かな光の射すその目に、釘付けになったんだ。
いつか夏の終わりに、一緒にあの小さな丘に行ったよね。
あの時、千里の目に映っていたものは、一体なんだったの?
私は綺麗な夕焼けと、大きな海の存在に心を奪われ、苦しくなったよ。
切なくなったよ。
私たち、きっと同じものを見ていたんだよね。
その時に見た幻に、私は自分の姿を重ね合わせて泣きそうになってた。
千里は生きることを投げ出したんじゃない。
千里は本当に海になれたから、満足してるんでしょ?
ここは千里にとって、息苦しい世界だったんだ。
今、自由になって優治君と一緒にいる千里が目に浮かぶよ。
私が千里にしてあげられて事はなにもなかったけれど、私は千里からいつもいろんなものをもらっていたね。
今まで沢山の暖かい心と、素敵な思い出をありがとう。
これから先、絶対に忘れないから。
約束。
知香
千里のいなくなった毎日は、いつもと変わらなかった。
私は匡たちと一緒に最後の追い込みに入っている。
でも、ふとした時に、千里がいないことが本当に不思議で、胸が詰まる時がある。
千里の存在は私にとって大きくて、とても儚いものだった。
それでも毎日は、いつも通り通り過ぎていく。
千里。
私頑張ろうと思うんだ。
応援してくれる?
今、一筋の光が未来に向かってまっすぐにのびていく。
私はそれを見失わずにいられるだろうか。
冬の心とした空気が私の頬にひしひしと伝わっていく。
完