TO BE

 夜の渋谷は、昼間の明るさよりも特段綺麗で美しい人工光を放ち、そこに集まる全ての人たちの背中を照らしあげる。

私は網タイツに華奢なピンヒールのミュールを履いた自分の足が、無造作に投げ出されているのを無意識に見つめながら、渋谷109の横の花壇に座っている。

さっきからもう、40分以上はこうしているかもしれない。

 夜の生暖かい都会の風が私の耳元を微かに通り過ぎていくのを感じ、不意に今自分の着ている物、身につけている物全て払いのけたくなる。

肌に塗りたくったゴールドのグリッターも、シャネルの香水も、マスカラも、ピアスも、みんな取り除いてしまってシャツとジーンズに戻りたい。

今の私には網タイツで飾った足も、モルガンで買ったキャミソールも、デニムのマーメイドスカートも、どれも全く似合わない滑稽なコスプレのように思えた。

 ついさっきまではカナエたちと一緒に毎週通っているクラブで遊び、いつものようにオールするつもりだった。

しかし、人で混み合い、香水と汗の匂いの充満したフロアに降りた途端、私はその場にいることにすら吐き気をもよおし、さっさと一人で出てきてしまったのだ。

 109前に集まっている女の子たちを何気なく見つめる。

自分を少しの抜かりもなく飾り立てて、マスカラとシャドーで2倍は大きく加工した瞳で上目遣いをし、さっきナンパで知り合ったばかりの数人の男たちと楽しそうに話をしている。

 彼女たちのやりとりを見ていて、私は思わず笑い出しそうになってしまう。

思わせぶりな態度で何十分もそこで立ち話をしている(私が来てすぐだから、もうおそらく30分くらいは経っているだろう)姿がどうしてもおもしろかった。

どうせ付いていくんだから、さっさと行けばいい。

暇な奴ら。

 私は自分の携帯が受信したメールに目を移す。

「サヤカ、どうしたの?

急にいなくなるから。

リエがいい男ひっかけたよ。

サヤカも来なよ」

カナエからだった。

私はメールを返信しようとしたが、一瞬考えて携帯をしまう。

あのフロアにいたんじゃ、私からの返信に気が付くとは思えないし、第一、クラブに戻る気もなかった。

 私がもう一度視線をあげると、さっきまでそこにいたはずの女の子とナンパ男たちはいつの間にかいなくなっていた。

そのかわり、次のグループがその場に立って、次の獲物がくるのを待っている。

 何気なく駅の方を見ると、見たことのあるような女の子たちが見たことのあるような男たちと歩いているのが見えた。

あぁ、さっきそこにいた女の子たちだ。

そう思った瞬間、その中の一人が自分と同じカバンを持っていることに気が付く。

みれば、服装まで同じ…?

 風が私の側をくすぐるように通り抜ける。

ほんの一瞬目を離した隙に、もう、女の子たちはどこか人混みに紛れて見つけられなくなってしまった。

さっきいたのは、あれは昨日の自分だったかもしれない。

ただ、幻覚を見ているのかもしれない。

そう思った。

自分自身だったのか、他人だったのか、それすらもよく分からなくなっている。

私は世の中にとって何にも映らない存在なのかもしれない。

 隣で煙草を吸っている20代の男のせいで、煙が目にしみる。

渋谷の青白く光る妖光に飲み込まれていく意識の中で、私は少しだけ涙を流した。

 

 私が見た私の幻は、あのあと一体どこへ消えていったのだろう。

そんなことを考えながら、昨日は友達の家へ泊まった。

自分の家には帰る気がしなかった。

別に何が不満で、何が気に入らないと言った特別な理由はなかった。

ただ、なんかウザかった。

それだけだ。

「今日はバイトだから、一度実家に帰ってから行くよ。

出ていくなら、鍵かけてけ」

ナオキはそう言って私に部屋の鍵を放り投げた。

綺麗に放物線を描いてそれは私の手の中に収まる。

「じゃあ、鍵はその辺においとくから」

私は冷蔵庫の中を勝手に物色しながら答える。

考えてみれば、昨日から何も食べていなかったので、急にお腹がすいてきたのだ。

 私は冷蔵庫からソーセージを一本取り出すと、「これもらうね」と言って食べ始める。

ナオキは何も言わずにバイクのキーを持って出ていった。

 ナオキと私はもう、幼稚園の頃からの幼なじみだった。

父親は一流企業の取締役だし、母親はすごく教育熱心な人で、全く問題のない幸せな家庭に育ったナオキは、なぜか私と同じようなダメ人間になった。

ナオキはフリーターだ。

フリーターと言っても、ただのホストだけどね。

顔がいいせいか、たいして口がうまいわけでもないのに、結構人気があるらしい。

それなのに週に3日しか働かないのだから、ずいぶんと楽しい生活を送っているだろう。

ナオキとは小さいときからずっと一緒だったので、いまさら何かあるわけではないが、我ながら男と女が同じ部屋で一晩過ごしても何も起こらないのはスゴイと思っている。

ナオキがあんな風になったのは、私のせいかな、とたまに思ったりしたけれど、最近はそんなこと感じなくなってきた。

どっちが先にこんなぐーたらな生活を始めたのか、分からなくなった。

今の状態をヤバイと感じなくなった。

現に今、高校もろくに行かず、友達の家を渡り歩いている自分が当たり前になってしまった。

 これから先、どうするか何て、考えたことがなかった。

考える必要がなかった。

きっとこれからだって、私は私のやりたいように生きていく。

誰にも指図は受けない。

そのことは私にとって誇るべき事で、まして今の自分を恥じた事なんて一度もなかった。

 でも、昨日ふっと感じた、不安。

今まで自分には色を付けたくないと思っていた。

だけど、真っ白でも真っ黒でもなく、透明であるかのような、不安。

世の中にとって必要とされたいなんて思ってないけど、ただ私がそこにいるという証が欲しくなった。

明日死んで、明後日には私が生きていたと証明してくれる物なんて、何もない気がした。

 そんな当たり前だと思っていたことが、急に怖くなった。

 

「なんかさ、私ってすぐに忘れられそうじゃん」

「何、急に」

「明日死んだら、私が生きてたっていう、証みたいなの、なんもないっていうか」

「そんなの俺だってないよ」

ナオキは笑ってさらっと答えた。

「それがさ、なんか怖くなったんだ。

どうしたら、証明してもらえるのかな」

「そんなことで?」

「ナオキは別に平気なんだ」

私はバイトに行く支度をしているナオキを横目で見ながらコーヒーを飲んだ。

「証明してもらうんじゃなくて、自分で証明するもんだろ」

「え?」

ナオキは支度に忙しいのか、それきり何も答えなくなってしまい、必然的に会話は終了となった。

 

自分で証明?

 

私はナオキが出ていった後のドアを見つめて、一つため息をついた。

 

それから一週間、私はほとんどナオキのアパートに居候させてもらっている。

いつもならナオキは友達の家に泊まりに行ったり、実家に帰ったりであまりアパートにいることはないが、この一週間は私が居候していたせいもあってか、毎日帰ってきていた。

私たちは別に付き合っているわけではなかった。

だけど、付き合いが長いせいか、何かあるとすぐナオキのところへ来てしまう。

 7月の生暖かい空気が私の気分を鬱にさせる。

もし、綺麗に晴れ渡ったブルーの空が覗いているなら、こんな風に考え込まないで済んだかもしれないのに。

 

 久しぶりにカナエたちと一緒に遊び、海に行くことになった。

海と行っても、もちろん昼の暑いときではなく、夜涼しくなってから。

夜の海は、誰一人砂浜にいる人はなく、私たちだけだった。

湘南に吹く風は渋谷とは違い、私に生気を吹き付けてくれている様な気になる。

「海ってなんか夜に見るとちょっと怖くない?」

「うん、水の色が真っ黒で超暗い」

カナエとリエの会話を聞きながら、私も海を見つめる。

海の色は真っ黒だった。

でも、月に照らされている遥か遠くの水平線は、まるで宝石のようにきらきらと光を放っている。

 きれい…。

私は思わず呟いたが、二人には聞こえなかったみたいで、私の声は湘南の風に連れ去られて消えていった。

海面は絶えず動いてその光を乱反射し、月明かりの下、この夜の静寂を作り出す。

誰にも分からない、海の深い深い海底で、深海魚たちがひっそりと生きていることを、私たちに囁きかけているような、そんな夜だった。

私は携帯を取り出し、すぐにナオキに電話をかける。

「ねぇ、今海にいるんだけど、知ってた?」

「はぁ?」

ナオキは仕事中だったみたいで、後ろからコールの声が聞こえてくる。

でも、私はかまわずしゃべり続けた。

「月の明かりで光海面はね、海の底で生きている、深海魚たちの生きている証なんだよ。

魚たちが動いて、海面が揺れて、月の光を乱反射させてる」

「深海魚?」

「そうそう、良く分かんないけど、チョウチンアンコウとか、そんな感じの」

ナオキは私の話をちゃんと理解してくれただろうか。

そう思って不安に思った瞬間、ナオキが電話の向こうで言った。

「知ってる?」

「え?」

「深海魚って、浅海魚に比べて、すっごい変形しているのばっかなんだよ。

発光体を持ってたり、異常に発達した目や、でっかい口だったり。

退化しているものもたくさんある。

軟弱な骨で、弾性のある骨格を持ってるんだよ」

「へぇ、なんでそんなこと知ってるの?」

ナオキは私の問いかけには答えず、続けてしゃべった。

「でも、そんな風に変わった形していても、ちゃんと生きているし、サヤかが言うように、生きている証を遥か何百メートルも上の海面まで届けてる。

俺も、海面がゆらゆら揺れているのは、そいつらの生きている証だって思うの、正解だと思う」

「ナオキは、自分も生きてる証、欲しくない?」

しばらく沈黙が流れた。

でも、その沈黙は長くは続かなかった。

「じゃあ、サヤカに作ってもらおうかな、その証」

「え?」

「俺はおまえが生きてる証を作る」

「二人で作るの?」

「うん」

「こんなガラクタみたいなあたしでも、生きてるって証明して、主張して、いいんだよね?」

「うん」

また風が吹いた。

もう夜が明けようとしている。

最後の力を振り絞るように、水平線の上で光り輝く、生きてるって証。

深海魚たちの夜は終わり、そしてその証もまた、日の光に飲み込まれて消えていく。

ほんの、一時の出来事に過ぎなかった。

でも、確かに私は、私の知らない小さな生命達の存在を感じたんだ。

しばらくすれば、日が昇って私たちはまた、いつものくだらない生活に戻っていく。

でも、その中にも光り輝く宝石がある。

それを見つけるために、少しくらい遠回りをしてもかまわない。

ナオキのいるアパートへ帰ろう。

そして、二人で一緒に宝石を見つけていこう。

私はカナエとリエを見た。

二人は貝殻を見つけて楽しそうに騒いでいる。

「誰としゃべってたの?」

カナエが桜貝を手にのせながら、笑顔で言った。

「もう帰る?今日朝からバイト入ってるんだ」

リエが少しめんどくさそうに言った。

「帰ろっか」

私は二人に言った。

二人の後ろに二つの影が出来ている。

私は自分の足下に視線を落とした。

私の影がそこにはあった。

一つ、見つけた━━。

私が今、此処にいる証を━━。